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このサイトについて(種明かし)

ここにある全ての文章が日記というわけではありません。もちろん基本的には事実を書いていますし、日付もうってありますが、それが、本文に書かれていることがその日に起こったということを保証するものではありません。最近の傾向では、数日前に起こったことを頭の中で何度か推敲してアップロードすることが多いようです。

また、ここに書かれていること全てがわたしの本音であるかというと、そういうわけでもありません。心に引っかかる単語がストックされているとき、それらを繋ぎ合わせて、自分の信念に反さない範囲でひとつ文章を作ってみようと思って、いわば文章をでっちあげることも多々あります。

そうすることにどんな意味があるのか?答えは「ありません」。むしろ、わたしという人間を致命的に勘違いさえしないのなら、文意はどう受け取って頂いても結構だと思っています。というか、自分にしかわからないように書いているふしすらあるので、ある種の文章においては、他人には何が書いてあるんだかさっぱりわからないはずです。にもかかわらず、ささやかではあるけれども、何年もここを見てくれている人がいる。それは、その人なりにこの場所との折り合いのつけ方があるということです。自分が意図しないそういった運動が誰かの中に存在しているというのは非常に面白いもので、気分としては悪くありません。

ところで、岸田繁が詞を書く際、わたしの方法論とそう遠くないことをしているそうです。ノートに詞をとりあえず書いて、書いたらそのページを破り捨て、時間が経ったらまた新しく書いてみる、という。ここで大事なのは、彼が伝えたいのは詞の内容(メッセージ)ではなく、どこまでも音楽であるということです。意見を表明したいのなら、それは音楽でなくてもよいし、むしろ音楽はそういうことは向いていない、という考えなのかもしれません。実際のところわかりませんが、彼にとってこの世界の中にあるものは、彼の視線や触覚を通して彼の中に入ると、自動的に音楽へとコンバートされるのでしょう。誰にでも意味のわかるように書き、文章としてそれを読ませることには、彼はあまり価値を感じないのだと思います。全ては伝え切れない音楽で物語ってこそ彼は彼を表現できるのであり、逆説的に言えば、そうでなければ彼は何かを伝えたという実感を持てないのです。それこそが彼がミュージシャンであることの一番の理由のように思います。

少しだけ、伝えたいことをはっきりと書きましょう。世界はただ、あります。それを見て思うことがあります。だから書く。それが本来の「書くこと」の形です。わたしがしているのは、「書くこと」が宿命的に孕む選択性・・・つまり、選ばれた「書くこと」と選ばれなかった「書かないこと」の閾を少し曖昧にしたいのです。そうすることで書かれたものは、単純に書いたものとは何かが違う。言いたいことが何かあるわけでもない。あったとしても、意味は伝わらない。でも別にそれでいいんです。ただ違うというだけで。むしろ、そうだからこそいい。そうでなければいけないのです。

気まぐれに「伝えたいこと」を素直に語ってみました。しかし、血の巡りのいい人なら気づいているかもしれませんが、この一文すらも上に書いたような方法論のもとで書かれているのです。正味の話、こういう書き方をしているのは、わたしが「書きながら考える」タイプの人間だからというのが大きいと思います。拍子抜けかもしれませんが、とはいえそれはそれで「書かないこと」の声を聴いているとも言えなくはなくて、結局わたしが書いているのは「言葉」ではなく、雰囲気というか、ものごとの全体性というか、「世界」というか・・・あえて自分の実感に近くなるように名づけるなら、それは「音楽」か、あるいは「音楽性」のようなものなのです。おわかりいただけましたでしょうか。


付記:手紙

上の文章を読んでもらえればわかると思いますが、あなたのその「気に入り方」は非常に正しいと思います。意図しない受け取り方をされるのも面白いけど、何も言わずともそうやってこちらの意図を汲んでくれるあなたが大好きです。


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