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    log(秋田)上のほうほど古いログです

    12~04/**(***)はじめましてまたいつか

    考えても仕方のないことは、本当に考えても仕方がなくて。伏し目がちに笑ったり、それを自制したりしながら、どうしようもなく続いていくものだと思って、無力を悟って諦めている。けれど、「いったい何を諦めているの?」と聞かれたなら、きっと困ってしまう。諦めているのかもよくわからない。考えても仕方ないのに考えているのは、他でもない自分でしょう。破綻している?そうかもしれない。


    少しずつどうでもいいことにしていく。前に比べたらぐっと楽しい、今の状況自体が理由になると思いながら、できるだけやさしい顔でいた。それはもう善悪の問題を超えてはいたけど、自分のことなんかどうだろうが構わない。遠くの景色を眺めるときのような気持ちで、ディスプレイごしに君を見た。図々しいことはぜんぶカッコの中に入れました。

    バイバイサンキュー聴いて、これあたしたちの歌だよって言ってた。そうじゃなくなるよう頑張るよって、頑張ればどうにかできるらしいことを告げた。


    あたりはずいぶん見えるようになった。視界がひろがったのか、霧が晴れたのか。そんなことはすこしも重要なことではなくて、むしろ、それに反比例するように見えなくなっていく自己像とか、遅ればせて知らされた現在位置とか、いつまでたっても慣れることのできないくっきりした輪郭の風景とか、ほんとにどうしたら? などと思うわけで。足元しか見えない視界はどこまでもうそっぽかったけど、意識は今よりも確実に集中していた。

    考えないほうがいいこともあるんだねと友達に言って、そうだね、と返されたり、何もしないまま過ぎた時間をありきたりに悔やんだりしながら、しばらく携帯電話の画面を見つめた。


    書き綴っている。書き綴るために書き綴ることは、嘘だとばかり思っていた。でもなにか言えたときはすごくうれしい。


    ふつうに、人に気を遣うということに触れた。少し嬉しいような気がしないでもなくて、やっぱり、向いていくこちらの気持ちがうにゃうにゃとわからなくなる人だと思った。特別だと。

    すごく重たいけど可愛らしい配色のマフラーをして、困った顔をして、よく笑う。

    素直になれなかったし、素直になることも許されないようだった。しかもそれで誰にも問題なく世界は循環してくれる。よかった。どこかにある正しいことそれ自体が、正しいことを生産するわけではないのだと、最近やっと気づいた。


    目の端にあらわれた影に気づいてうしろを振り返った。ゴミか、なにか。詳しくはわからなかった。

    鬱屈しないと、先に雰囲気をつくらないと何かを言えないなんて、くだらない。ほんとうに、あなたは考えているの。話はそこから。


    日常はどこにも収束していない。終わりや、まとめのある小説が小説と言えるのか。語りつくせることを書いて、何をしたいのか。


    休日が停滞した。休日、が。お休みの日は力が抜ける、のではなくて、むやみに拡散していく。息苦しい。ときどき物理的にも。


    可能性は人間の側にはなく、すべて世界が有している。カードを選ぶようなものだ。カードの枚数は決まっていて、絵柄は見えない。人はただ無闇にカードを引くことしかできない。世界にはそういう掟がある。長いスパンでの最近では、それを不条理だと叫ぶことさえ、掟の一部になろうとしている。


    なやみ事は一度「そうじゃない」と言ってしまえば消えてしまう。つらいことでもかなしいことでも、否定してみれば、というか、考え直してみればそうでもないのがわかる。

    つらくもないし、べつにむなしくもない。楽しくて毎日笑ってばかりいる。わるいことは知らないうちに近づいてくるから、それまではこのままでいい。


    忘れはしないよ 時が流れても

    忘れない? 忘れるよ これからもずっと


    冗談で泣けたなら、とか、言ってみたら少し何か変わるかなと思って言ってみたけど、誰もいないし。わたし、笑えること、言いましたよ。どなたか笑い飛ばしてくれませんか。

    感傷とかバカのすること。なんとなく浸ったりして、それは暇つぶしじゃないの。


    人と同じことはしない、とかそういう決意はもういいです。矛盾してるし。内輪ネタとしか思えない。


    無益というか、利益の反対概念としてのものではなく、ゼロの、虚無の・・・何か。囲い込む形では表現できそうにないけど、そういうものがたぶんあって。見えないけど見えなくていいし手に入れたいって思うのも方法として間違い。それを探そうとする態度自体が正しくて、しかしそれだけではないと頭のどこかで実感しつつ、空とか猫を眺めている時間にもしかしたら最接近していたりするかもしれない、そういうものが。


    楽しい、きっと楽しい。考えないで済むように、短く笑って、おもしろくしようとした。メールも少しずつ慣れてきた。

    こうとしかできないんだったら、こうとしかできないって素直に肯定したらいい。だってそうする以外にどうしようもないし、素直なのと素朴なのは違うから、いいの。


    すぐ泣きそうになる。おじいちゃんが死んでから、涙腺が壊れっぱなしだと思う。何もないところを見ているのに、視界が下からぐんにゃりと歪んでいく、その不自然を祈るような気持ちでやり過ごす。辛くはない。ただ、涙が出ることで、辛いのかもしれない、と勘違いしそうになる。つらい。


    すごく考えてるつもりだったけど、実はそうではなかったみたい。少しでも答えが見えたなら、2,3歩戻ってまたやり直す。結論とか、なんですかそれ?という感じで。


    何もない日は、何もかもが充足しているということだった。雪景色と青空の組み合わせはすごく好きだと思った。いい天気だねー、と言った。コーヒーのためのお湯がすぐわいた。時計がある時間をさし続けていた。


    見抜かれたいと思っている。ただ生きているだけでもう、じゅうぶんなのかも知れないけど。


    オークションでROVOの「IMAGO」が、クラブ、ダンス>テクノじゃなく、クラシック>現代音楽、のカテゴリに出品されていた。ちょっと嬉しくなった。


    えんえんと細い横線だけが表示されるページを作った。きれい。


    意味ばかりが見えている。いきものは生きて死ぬ。時間はものの中を流れる。それだけのことを、それだけのこと、という言い方以外で表現できないこと。


    真偽ばかり気にした。悟ってる人はみんな詐欺師だと思う、自分以外は。本当のことをなぜか嘘のように響かせた。ことばが空を切った!


    暗い道端になにか不穏なものを見つけて、気がかりなまま、ペダルを気持ち強めにこいだ。なんでも、話のネタになると思う。きょうはマフラーがうまく巻けている。いい感じに隙間からつめたい風が入ってきていた。


    どこまでが他人だろう。ひとのことを考えるのは幸せだけど、そのせいでたまにわからなくなる。ついつい、あなたのわたしと、わたしのあなたが会えたなら、とか、突飛なことを考えてしまう。何も知らなければ知らないぶんだけものごとは続いていく。


    怖いから目を合わせないのではなくて目を合わせないから怖い。バス停、ホットのミルクティーを飲みながらきのうとかおとといのことを思い出した。目の前にいる中学生ぐらいの女の子二人、同じような髪型、コート、マフラーの巻き方。小さいボトルのミルクティーはすぐなくなってしまう。足元をうろついているはずの鳩が一羽もいないのが少し気にかかった。


    誰かに会いたいなと思いながら街を歩くとき、その「誰か」の顔はいくつかに限定されている。会いたい顔。その裏側にはたくさんの会いたくない顔がある。ブーツを押し返すコンクリートの硬さを感じながら、頭の中で、会いたい顔と、会いたくない顔がひらひら翻り、それとは無関係にどうでもいい顔が視界をかすめていく。昨日も今日も誰かとすれ違い続けた。


    本当は降っていないような雪だった。太陽が出ていたせいかもしれない。間の抜けた速度で、降るというよりは、ゆるやかに滑り落ちるように舞っていた。ずっと前に見た夢の風景を思い出す。分断されて意味を失った、いくつかのイメージが重なるだけで幻を見たような気分になれる。バスはまだ来ない。ポケットの中の携帯を握りしめる。


    絶望を絶望と呼ばなければ、穏やかな毎日が送れていて、今、伏せた視線、それがどこへ向くものであろうとも、どこにも向かないものであろうとも、ただただ時間は過ぎて、わたしはやっぱり楽しかったり悲しかったりして、いつものように困りはてて部屋の窓から空を見上げる。星は見えない。空気は澄んでいる。曇っているだけらしい。

    目の前にある暮らしの、ひと時ひと時以外を見ずに、いつかの何かと相対的に離れていくこと。それは忘れることとは違うように思えたけど、同じだろうがそうでなかろうが、いったい何だというのだろう。固有の体験は固有の体験として世界の限り残り続けて、それ以上でもそれ以下でもない。


    洗いものをしているときにふと、腑に落ちないまま忘れていた会話の意味が急速に了解されるような仕方で、残りたい。残っていきたい。


    携帯の画面を見ながら思う、わたしが情けないだけなんだと。一般論には吸い込まれないように気をつけないといけない(理由は忘れてしまった)。考えること自体を実践に繋げるべきではなかったかも、とささやく声が聞こえる。何も出来そうにない。覚えていることしか話せない。ストーリーは手放した。喋り方も、変えなくちゃいけない。


    安定するための必死さが首を絞めているのだった。おかしなところは前から見えていた。ただそれもうすーくのばせば、地として真実らしい風景を作り上げることができたのだ。喩えを続けるなら、そんな部屋を掃除するのも面倒くさいからどこかへ引っ越すことにしたい。

    対象はきっと、どんな風にでも表現できる。できないはずがない。しばしば、わざと嘘までつくくせに、できないだなんて言えるわけがない。崩れながら、ずっと喋る。


    自ら見えない敵の手を引いてきて、うんぬんと意味のない言葉を並べることの、何が勇気だろう。ロックのそういう感じは嫌い。人のことは、何一つしゃべれない。


    ぬかるんだ雪道。足の裏側はぱんぱんになって、靴擦れは痛いわ、それに雪水がしみるわで、ほんのり子供みたいに泣きたくなったから、もう、子供のつもりで誰もいない道をすり足で歩いた。じゃばじゃば音を立てながら、雪は放射状に飛んでいく。とても、長ーい足跡が、後ろに続いているだろうと思ったけど、振り返るとそうでもなかった。心もち長いかな、という程度だった。

    路傍で雪解けの水が流れているのを見た。さらさらと下り坂を降りていく波紋は、重なり合っているようにも打ち消しあっているようにも見えた。


    空気公団には何かと泣かされることが多い。靴擦れがいっそう酷くなって、靴下のかかとの部分がうっすら赤茶色に染まっている。薄暗くなった部屋、きっと窓の外に鳥を見かけて、猫が喘いでいた。


    「薄い青…」と言って「水色ですね」と言われて、ああそうでしたっけと言う。


    今日、学校、なかった。知らなかった。行ってしまった。笑い話が一つ増えて、割と悲しい話を一つ聞いた。たえること以外にすることがないので、どうにかこうにかやり過ごした。いつの間にか、感情と感情の差異が薄れていて、それが例えば動揺ならば、動揺以外の何者でもないようになっている。雪かきをしている人はみんな怒っているように見える。バスの機械音がいつもより大きい気がしていた。


    指し示すことが同じでも違う表現ならそれはやっぱり違うことなんだと思う。悩むのは言葉が予想以上に強いときがあるから。


    きょうも正論には勝てなかった。なんだか同調してしまう。「してしまう」という表現に引っかかりを感じる。


    チェーンをまいて、じゃりじゃり音を立てながら走るバス。席が空いたのに一人立ち続ける紺色のコートの女の子には、良かれ悪しかれ意地がある。内面がある。立ちながら文庫本を読んでいた気がするけど見間違いだったかもしれない。そういうことを思って2つ目ぐらいの停留所でその子は降りて、闇の中へ消えていった。辺りは本当は白いはずだと思った。


    寒いときに手がしわしわになるのは自分だけなんじゃないだろうかと思っているのだけど、確認する手立てもないし、大体の場合忘れている。ピーコートのポケットに手を突っ込みながらそれに気づいたということは、学校に傘を忘れたということだった。トートに雪が入らないように、少し脇をしめた。


    何かを見ていた。空白に始点のはっきりしない指向性が彷徨っている。たとえ忘れてしまってもあるものはあったし、ないものは元から感じられない。


    はずかしい話、みんなが君に見える。街が君で滲むんだ。


    いまはどうだろう?と自分の気持ちを推し量れば、からっぽのフレーズがとめどなく溢れ出てくる。満ち足りて何も思わない幸せ、どうもありがとう。歌や声がよく聴こえます。


    晴れの雪道はまぶしすぎて、うつむかず、目を細めずに歩くことはできない。かといって上を見上げれば何よりもまぶしいであろう太陽がある。何事もないような顔で住宅地を歩く親子を見て心からすごいなと思う。ピーコートでは少し暑いくらいの日差し。風が吹いていたらよかったかも、と後でなんとなく思った。


    つらい人生を歩めば強くなるのではなくてへらへらすることを忘れてただ単純に生真面目になる。ドラマチックということは、その世界以外の世界ははじめから見ることができない、気づくことができないということだ。疑いようもないその正しさがまるごと害悪なのだが、これをどうして伝えられよう。


    自然現象がこの上なく不思議に思えるとき、どうしよう、と思って、少しして、どうもしなくていいんだ、と思いなおす。携帯電話の小さいディスプレイに、光るリチャードの顔が暗闇にゆらゆら揺れた。


    夕暮れ時は数分前のことがあっという間にすごく遠くなっていく。


    すごくつかれた時は何か閃きそう。食べたレトルトのカレーは味がしなかった。


    夜に外の暗さを見つめるなら、窓ガラスにかすかに映る自分の像を見なければならない。窓を開ければ素直に星なり月なり泥なり見えるだろうけど寒いからそれはしない。

    いくら気をつけても忘れてしまうのなら、あらかじめ「後で思い出そう」と決意してみたらどうだろう。あのきれいなフレーズが戻ってくるならそれも悪くないし、余韻を必死にかき集めようとすると、すぐにとても辛くなってしまう。


    主語を忘れた気分が、ぼんやりと次元を無視して拡がっていく。爪を噛みながらモニタを眺めていたけど確かでない。本当の幸せとかそういうものは感知できないと思う。今はなんとなくあるような気がするけど、これを苦しみと呼んだところでたぶん状況は何も変らないでいてくれる。なんかつかんだ気がした次の瞬間から、感覚はするすると漏れていく。


    明日価値がすべて転倒しても、とくに思うところもないのだろうなと思う。満ち足りているのだからこれ以上何も望まないし、強いて言えば、望ませないで欲しい。なんとなく負けた気分でも、「救われた!」と思う瞬間があっても、けっきょく見ているのは全体で、そういうことを夜に思い返せば、次の朝は無事にやってくる。


    印象に残ることは真実らしく感じる。とめどなく流れる日々は大きすぎて、きっと誰もが忘れてしまう。


    運転手さんが停留所をひとつかぞえ間違えたのか、運賃20円得した。なんとなく運転手さんはかりかりしていて、軽く追い出されるような感じでバスを降りた。夜も遅かったし…、とか思いながらバスを少し見送ったのだけど、ふと、こういう、絶対に相手に伝わらない、ぬるい気持ちを優しさとか言うのだろうかと思った。どこがかずいぶんおかしいな、と、へらへら笑った。疲れた。


    いろんな話をしながら、少しずつなにかわかったような気がして、なにもわかっていなかったことに気づく。変ったりもしないけど、することがおのずと違うものになっていき、思い出したりもしなくなるんだろう。漠然と季節のうつりかわりが見える。


    誰もひとつひとつのことしかできないけど、それが表象されるまでにはいろいろなできごとがあったのだ。人を責めることはやっぱりむずかしい。


    移動時間がいちばん充実していると思う。春夏は自転車に乗り、秋冬はバスに乗る。その間はずっと好きな音楽が流れていて、木々のにおいをかいだり整理券の角を指先であそんだりしながら、きっとわたしは育ってきた。もうすぐこの道とはお別れ。行き先よりもそこまで続く道が好きだった。


    思いついてしゃべったことは白々しいと感じながら、クローゼットの中身の鮮やかになったのに、少しくらっときた。それぞれのものに込められた価値観とか経験は、遠近法によって取るに足らない小さいものだと知らされる。


    思うことは思うこととして重さがあるように感じるから、心とか精神とかに崇高さがあると思ってしまう。ああだこうだ言いながらそれをごまかして、ごまかすということ自体が問題をかたちにしてしまうことに気づかずに、やり過ごした気になって、別の何かと遠ざかっていく。拳はすかすかと空を切る。


    写真を見ながら笑ったりするんだろうか。淡い期待とか希望とか、あるいは分不相応とか、考えることはすべて無意味なものばかり。状況を受けて考えているんだから、何かが変らなきゃ何も変らない。逃げるように追いかけるように、どちらにしても見上げた星と離れないように、あの道と遠ざかっていき、さよならする。頼ってしまいそうなら、もらったスタンドごと、凍れ。


    明らかに気温が変っていた。あたたかい、温水のような風。少し先の工事現場からの砂煙にまぎれて自転車をで走る。強い向かい風で、帰るときの楽しさのことを思う。以前は両脇にきれいな小川が流れていたのだけど、工事の関係で流れが断たれてしまった。それがすごく残念なのに、まだまだ道路はできそうになくて、あとから考えればイライラすることばかりだ。けど、それなら考えなければいいんだな、と思う。コンビニで買ったスナック菓子をばりばり食べて、コーラを飲み干した。


    モニタの向こうのコーネリアスの光はここまで届いていた。

    何も思わずにいられるのは幸せなことだけど、何も思えないでいるのは文字通り、むなしい。


    ナイーブとかセンシティブとか、選択に幅のないこと、性格とか、年齢のせいにしたくない。


    バカに支えられてはじめて成り立つ崇高さなんてほんとにあるの。


    知らない路地は無名の映画のように道がのびていて、少し上向き加減に、塀の向こうのうらぶれた木々をながめればむやみやたらと楽しくなる。

    まだ青みのない小高い山、くすんだ空。小石もない舗装路。でもあの細くてきれいな川はなくなってしまった、と、また思い出す。道路沿いのあの小川。春先は水草の緑と、川底の土の茶色と、水面に光が反射して白くきらきらして、そのコントラストがとてもよかった。


    何度も思い返すことほど冗談にできなくなって、いつか無意識の振舞いが人から笑われるとしたら、「相当に滑稽らしい」ということ以上は考えられないでいるのだろう。濃かったはずの絵の具も少しずつ、まわりと、そして自分にほどけて、気づいたら後先が消える。


    キツいことを言ってるときは悪い気しないし、劇的なことはほんとっぽい感じがするし、厳しい顔のままでいられたらきっと間違いないんだと思うけど、そんなのやっぱりつまらないことで、気がつけばいつも静謐に流れている基調低音みたいなものに耳をそばだててたいし。とげとげしいのとか、なんだかすぐ飽きちゃうから、たぶん向いてないんだと思う。

    そこから少し視点をひいてみれば、世代さんがそんなわたしたちの態度を微笑みながら眺めている。でもその視線の焦点が自分にあっているとは誰も思ってなくて、そこかしこであちらこちらに喋りかける声が、弾んで好き勝手に跳ね返る。


    ある程度の明日が保障された毎日にとかく言うつもりもなく。ラーメンズの小林さんが「強い言葉ばかりを探してたら絶対終わりがくる」って言ってた。


    結果よりもアプローチのほうに意識が行きがちなんだと思う。そんなことはよく知ってるはずだった。けど今やっと言えた。


    いちごのタルトにかびが生えた。もともと造形的に美しい食べ物だったから、一瞬それとわからなかった。ペールグリーンで、今期のミスハリのネルシャツを思い出した。


    あと数えるほどの時間でいま目の前にいる猫と長いこと会えなくなるんだと、ベッドの上で猫がごろごろしているのを見て、つよく思って、すぐに顔がぐしゃぐしゃになった。「あと」とか「長いこと」とかそういう言葉は「いま」のどうしようもないくらいの確実性に支えられていて、その確実性を失うのが別れというもので、それ以降は全部が回想か空想になってしまって・・・と、順を追って実感していくと、書くのもばかばかしいくらいの苦しさがこみ上げてくる。たいがいの人が自分でわかってて弱音を吐くのならなるべくそういうことはすまいと思うけど、誰かにわかってほしいとか、助けてほしいと思うなら、はじめからそういうことも言わないのだろう。それならまだ余裕があるらしいが、そんなことは信じたくもない。猫はいなくならない。わたしがいなくなる。誰にとって?それもなんだかよくわからない。


    夜風がもうあたたかい。むこうは桜が咲いてるって、前にちょっとすごく好きだった人が言っていた。冬のことをなんとなく考えていたら、フローベールの紋切り型辞典の「冬」の項目に、「一年でもっとも衛生的」という記述があったのを思い出した。真意のほどはわからないけど、冬の空気の冷たさのことを言ってるのだとしたら、人間の感じ方はそうそう変わらないということだろうし、あるいは、圧倒的に受身なものなんだろうと、ふいに思った。別に今のこのあたたかさが不衛生だとは思わないけど。


    猫を見るたび泣かざるを得ない。泣きながら、先にねずみの形の人形がついた棒を振り回して、猫の相手をする。ずっといそがしくて構ってあげられなかったぶん、すごく興奮しておもちゃを追い掛け回していた。もうどうしようもなくて、猫が部屋を出て行ったら、ベッドに横になってまた泣いた。

    寝ながら泣くと本当に涙が横に流れるのに少し驚きながら、ふと猫がいなくなるから悲しくて泣くのか、泣いている自分が悲しくて泣くのかわからなくなった。

    少なくとも、後者はよからぬ考え方だというのはわかるのだけど、そういう気分を否定しきれるかというとそうとも言い切れない。否定するという動作自体はすごく理屈だけど、今はそれを上回るように、あるいは次元の違いのように圧倒的なダイナミズムで「だからどうした、とにかくこんなにも悲しいんだ」という気持ちが爆発していて、つまり今は理屈で動いていないのだろうと思った。もちろん前者の考え方が正しいのは間違いないのだけど、肯定という動作もまた理屈であって、今はそれが適応されるような状態ではない。矛盾するようだけどそれは嘘でもなんでもなくて、ただ、正しいことがたくさんあるというだけのことだった。

    そうやって考えているうちに少し落ち着いて、今にまた泣き出すのだろうなと思った。たとえば晴れは、雨のやんだ状態として晴れなのだった。



    log(東京)順番はばらばらです

    くるりやナンバーガールが好きな子、と分類されてしまうと弱い そこんところで嘘はつけないし、なにより「図星です」と思っている自分がいる


    年寄りの身の上話の巧みさには驚く。この人、どれだけ自分の苦労を人に話してきたんだろうと思う。買ってでもした苦労の結果がこれだとか。


    サッポロOMIDE IN MY HEAD状態を聴きながら、ふと、このアルバムを聴く、何十年もあとの時代の人のことを考えた。歌詞が載っている冊子を開けると、センスのよくわからない、手書きの曲タイトルが並んでいて、次のページをひらくと、また変な色合いの背景に、ちょっといっちゃってる表情の向井さんがいて、汚い字でI don't knowという曲の歌詞があって。よく考えてみると、よくわからないと思う。

    このあいだ図書館でかりた四人囃子の「一触即発」もよくわからなかった。なまけものみたいな動物がなにかにぶら下がってこっちを見ているジャケット。曲は好きだったけど、詞はださいというか、変だった。でもナンバガの詞だって変なのは相当変だ。そんなことは、誰でも知っていることだけれど、でも、ナンバガを聴いているときはひたすら、その変な部分を含んでか忘れてか、とにかくひたすらかっこいいとしか思っていない。

    二十年とか、三十年とかして…感傷的な色合いにイメージするなら、わたしと同じくらいか、少し下の年齢の子が、ふとしたことでタワレコのずらっとCDが並ぶ棚の中から、このアルバムを選ぶ。「二枚組みで3千円なら安いな」とかなんとか思って、なんとなく買う。家に帰って、家着に着替えて、ウォークマンの音量を80パーセントくらいの、爆音のちょっと手前くらいの大きさにして、再生ボタンを押す。歌詞カードを見て、その子は「変だな」と思う。I don't knowのはじめの、あの、声というのは、音というのは本当に空気の振動なんだということを実感させる、塊のような声を聴いて、なかばその子は驚きつつもやはり「変だな」と思って、でも少し認めてあげたいような気持ちにもなって、自分の顔の表情や体の姿勢が固まっていることに気づいたりする。

    そういう、ありふれて、なさそうでもないそういうことを考えると、胸が熱くなる。

    その子は、「NUMBERGIRL」という、ぎざぎざした、いなずまもようのような書体が、今現在においてもすでにふるくさい、ある意味ギャグのような色合いを帯びていることに気づきもしないのだと思う。それでもその子はその子なりにナンバーガールとの付き合い方をだんだんとわかっていく。名盤というのはこうしてできていくのかもわからない。でもそんなことはどうでもいい。


    カフカでさえもそのアフォリズムのうちで「道」というモデルを使用していたことは、何かの手掛りなんだろうか。


    蚊の膨れ上がった腹を潰すとたくさん血が出る。これは誰の血なんだろう。


    泣き顔が涙をつくる

    音もなく知らぬ間に流れるそれは

    涙ではない


    寝不足の不機嫌や雨からの偏頭痛とひとつなぎの気持ち


    みにくい思いならそれはそのままで、そしてなぜみにくいのか考える。つらいのならそれはつらいのでいい。人は人の生活をして、それは自分にも当てはまるということなんだと言い聞かせる。言い聞かせる?そんなのに気づくの、弱るなあ・・・。でもなんだろう、変な自信すら感じるのに。


    間違ってはいけない。典型的な人物のことを典型的だというとき、本当に典型的なのは自分のその認識なのだ。


    疑心暗鬼にならなくなるくらい人に興味がなくなった でもこれがわたしの受容のあり方かもわからないと思う 引き受ける、誰かの間違いとわたしの真実に差なんてないし


    いらいらだってどこへも行けない 擬人法というわけでもなく


    晴れも休日は休みたいのか、雨のせいで気温が低い。自分が冷え性なのをだんだんと思い出している。


    「暴力的な衝動をよく覚えます。でもそれを確実に抑制できます。だからわたしは正常な人間です。」


    見えるものも少ないが、見逃すこともまた少ない。街の空気が目にしみて、ゆっくり目を閉じて、開く。

    先行する予言に対応する何かがあらわれて、それを、ほらみろ証拠だ、完全に基づいている、言い訳の仕様もないぞ、と、言い当てるようなことは好きじゃなくて、ものごとは他のものごとから推論していけるほど単純ではないというのは言うまでもないけど、そうじゃなく、単に言い張ることが好きだということで、図星だと思っても、違うって言ったらそれは違うんだろうし、それはそれで終わりだと思う。客観が事実なのではなく、事実がまずあって、それに対して客観と主観があるということ。素朴なやり方だとしても、わたしはそれを意志と呼びたい。


    たとえば、「あんな顔で、毎朝鏡を見るのが憂鬱じゃないんだろうか。それとも、慣れればそうでもないのかな」と目の前にいる醜い人に対して思ったとして、それがそのまま自分に当てはまらないこともない顔をしている。人のことをいう資格があるのかと考える。半々だ、判断がつかない・・・そのように思ったとき。そこで動作を放り投げてはいけないのだ。だからこそ(ここの接続は順接でも逆接でもどっちでもいい)、そこではじめて、言うべきか、言わざるべきかという選択の権利が与えられる。大いに迷った末には、必ず言えばいいのだ。

    「醜女!」

    あとは全力で走って逃げ去るだけだ。


    神の存在を守りたければ、そもそも人間は言葉を生み出すべきではなかった。今のところはもちろん、人間は言葉でしか神に届くことができそうにないけれども、しかし、あの物語、神の存在をあかしたあの物語、言葉で編まれたあの物語さえなければ、永遠に神の存在は疑われることはなかった。宗教家はけっきょく、自分で自分の首をしめているわけだ。


    生きたいと望む人はいずれ死ぬことについてどう考えているか。死以外のすべてのものが生であるというのは決して可能性を狭める考え方ではない。そもそも死が何よりの具体だから、それに従わんとする姿こそ生のあるべき姿であり、唯一の絶対的な生の肯定になる。忘れてしまった思い出や、果たせなかったものごとを、死だけが受容してくれる。

    自殺が、まっとうな救いではないことは言うまでもないにしても、その死自体を責めることはできない。彼岸と此岸は、当たり前だけれど、隔たっているから別々のものとして考えられているわけで、どうあがいてもこちら側とあちら側という関係が相互に成り立っている。責められるのは生前の彼であり、そのことに意味がない(あるいは、自分にしか意味がない)ということは、誰しも実感するところだと思う。死人には口もないけど耳もない。


    平日の原宿はすいてて歩きやすい。古着もゆったり選べる。程よい人ごみなら笑い合う人たちを見てもなんとも思わなかったり、つられて笑いそうになるのをこらえることもできる。


    迷ったら悪を欺く。信じることはいつもふらふらしても、胸に手をあてると溢れてくる沢山のそれらはきっと何かを教えてくれるだろう。善行なんてできると思わない。罪滅ぼしをしていく。そこにいるかいないかにかかわらず、他人に対しても、また彼に対しても。というのも、憎まれ役ほど辛い役どころなんて他にないのだし。


    格言や諺にはある一定値以上の真実が含まれている。ことあるごとに格言や諺をいう人のことは何があっても信用してはいけないが、過去から語り継がれてきたその短い言葉に対して、大昔の人が「そう言おう」と思った強いリアリティを回収していく作業は有益だと思う。それはイデオロギーにすらなってしまった真実の否定でもあっただろうから。


    心配の仕方にも年季というものがある


    自分に関することすべてが自分がいるということを前提にしている。人のせいにできるようなことなんかないと思う。かぜをひくのも悪いのはかぜをひく自分の体だと本気で思ってしまう。そこからは比喩でもなんでも拡がっていけばいいけど、それはともかく、責任ってそういうところからでないとわたしはよくわからない。


    肯定されたいあなたにわたしから全身全霊をかけた否定を愛を込めて(それがわたしの肯定にならないことを願いながら)。


    できれば羞恥心は他人のせいにしたい、が


    他人の気持ちを全て無視するなら、今一人で生活していて、本当に幸せなのかもしれない。ツラさやそういうようなものはやっぱりどう考えても形式で、それ以上のものをもたらさない点ですごく信じられる。強がり?そういう言い方があるんだったら、弱音を吐くよりましだって返答も許されるぐらい、意味がないよね、最近は。


    「その他のゴミ」用のゴミ箱や、つま先、あるいは灰色の床を。じっと見つめることに、なんの手がかりもないこと。そう言ってはみても、そう言える限りで意味があるのか、それともそれが意味がないということなのか。


    お前から時代を差し引いたら何も残らない。しかしそれが時代の恩恵だと言えなくもないのだが。


    図書館を出るときたまにものすごくさみしい空気に出会うことがある。日差しと、図書館の敷地にそって植えられた木々の呼吸とか、いくつかの要素が重なるとこの空気ができあがるらしい。この空気はいつか夏の終わりを告げたことがある。しかし、そんな事実はなかったのだろうか。


    湯船から出るとき、頭に血がいかないのか、10秒ぐらい目が見えなくなる。これさえなければ日々の生活に不都合というものは何一つとしてないのにと思うんだけど、なかなかどうして、視界が消えていくというのは怖い。目をあけていても何も見えない、というと、何かが根本的に間違っているような気がするし、その瞬間というのはふだん見慣れている暗闇ではなくて、テレビの砂嵐のようなフィルタを強制されるような感じがする。「真っ暗闇で何も見えない」というけど、それでも闇を見ているわけかと思う。


    そでの細いジャケットはいい。腕を組んだとき、その組んだ感じがよくて、自分のうででかた結びができそうだと思う。


    自分が過去に考えたことが今の考えを支配し始めた。ネタ切れかな? そうやって遠ざかっていくんだって、いつか気づいたはずじゃなかったか。


    駅の床は世界中のどんなものよりも堅そうに見える。朝専用の缶コーヒーで磨いたばかりの歯を汚していく。人ごみの中の喫煙者は本当にゴミだと思う。

    平穏でないことも含めて、平穏に一日が始まっていくことは、いいことだと思う。不安とは、何か?それ以外のことが起こることだ。不安の起点を実感することはなかなか難しい。しかし現時点としての終点からさかのぼって、目星をつけることは酷いくらいにできる。それが不安を増長させる。


    空の色のせいだ。帰りの新幹線の中でそう思った。眠気に誘われながら、最後に嘘をついた。本当のことを確かめたくて、と思えば、どういうことも手段になってしまう。


    8月から髪を切ってない(切りにいけない)から、左目は前髪ごしに世界を見てる。冬場はどうせ、去年までは、雪の照り返しがひどくて前なんかろくに見えなかったから同じ事なのかもしれない。いま住んでいるところには、冬がこなかった。きっと去年も来なかった。そういう冬があることを知らなかったことは当然のことだったし、いまそれをおくればせて当然のこととしてうけとめているとも言える。春のようだ、居心地がわるい、アウターをまだ着ていない。


    サザンテラスとかってぜんぜん知らない場所なんだけど、なんだろう、迷ってない感じが凄かった。紀伊国屋に中学の修学旅行以来に行った、というか来たというか。最寄の書店にも、リブロにも、ジュンク堂にもなかったマンガが普通に積まれてて感動した。新宿をもっと活用するべきなのかもしれないと思った。


    切れた唇をなめてごまかした。慣用句になっている冬の空気のなかでは、はっきりとした白い息はかえって不健康に見える。余計なことは考えないという固い約束が、思いついた瞬間に矛盾だと気づいて、暴こうとする心の動きがまるで、それは、嘘みたいだと思う。


    ZAZEN BOYSの「黒い下着」は、いまだにナンバガナンバガ言ってる人たちへの、ものすごい「ノー」なのかなあと思ったりしつつも、ずっと聴きそびれてたSAPPUKEIツアーのライブ音源がサッポロOMOIDE IN MY HEADよりもよっぽど音質がよかったりして(おまけにこの日のアヒトさんはいつにも増してマッチョ。福岡公演だからか)、ナンバーガールがぜんぜん過去のものになってくれない。解散してから好きになるっていうことの怖さはたぶんここにあって、「ナンバーガールの歴史を今ここに終了する」とか言われても、アルバムにおさめられている限り、それはそういう音楽でしかない。何度でも繰り返されて、「諸行無常」もなにもあったものではない。


    適当なこと言ってる人を殺意だけで殺せたらいいのにな。


    キリスト教徒の、自分たちは非常に罪深い生き物なんだという意識は非常に素晴らしいものだと思うんだけど、それを神によって救済してもらうという発送は頂けない。日本の仏教にも似たような部分があるけど、罪や苦しみに精一杯耐えて、何も求めないという考え方は宗教思想の中に、とくに中心として見出すことはなかなかなくて、人間は弱い→救われなければならないという方向性にはどうしても弱みに付け込むようなニュアンスを感じてしまう。

    だから、という繋げ方もおかしいと思うけど、神様は人間に、救済よりも忍耐力を与えたらいいんじゃないかと思う。キリストの奇跡の比喩にしても、殺されて、死ぬということはいわば、生命にとっての最大の試練なんだから、あれも究極の痩せ我慢の姿と言えなくもない。「ぜんぶ気合で乗り切れ!」っていう宗教があってもいい気がする。素敵だ。


    考えてるときは死ぬほど苦しいけど、そうでない時間はただただ死ぬことを見つけるためにあるのかと思うと、それはそれでしんどい。


    なんの悲観も、変わったことを言おうとしているのでもなく、感情と関係のない、いまそこにあるシャーペンの芯と、1200年前に京都でのたれ死んだ猫くらい関係がなくなってしまいたいと思ったのに、それができないことだとうっすら認めたときの、その、謂れのない言いがかりをつけられたときのような気分は、どこに向かうのだろう。なんだか忘れてしまいそう。


    駅で、そこにいる女の人は頭を思い切り強打されたことなんてないんだろうなと思ったら、なんとなく蹴っ飛ばしてみたいなと思った。いちいち心が荒んでるとか、誰に向けての弁解かわからないようなことはしないけど、そういう衝動があることにはとくに言い訳はしない。似たようなところ(なのか?)で、電車を待っているとき、急行がすごいスピードで突っ込んでくるのを見るとそこに飛び込みたくなる。たぶん、破壊とか死とかよりも、力学とかそれに近い興味が働いているんじゃないかと思うけど、どの実験にもすでに名前がついていて、新しい意味すら付加されていることに少しばかり腹立たしさを覚えつつ、結果的にわたしはそれらを無表情で考えていたということになる。責めるのなら好きにしてほしいけど、わたしはその批判に悪意すら感じる。


    単純に生活しているだけなら、自分の存在が誰にとってもノイズにならないと本気で思っている人が嫌い。本当に嫌い。


    目の前の様々なものごとや溢れんばかりの自己の感情に対しての悲嘆・総括として「空しい」と言うことの見事なまでの自分勝手さには軽く驚く。言葉の上での話だと実感する。


    理性を基準にするから間違う、と言ってみた時の、ものすごい違和感と、素直に頷く感じ。


    影ができるのは光のせいだ、信じるべきは光だ、ということを、閉ざされた部屋の中で言える人は少ない。比喩としての記述になり切れないことに苛立ちを覚えながらも続けるけど、光を求めることより闇に慣れて、本当に必要なのは空気とか水とかそういうようなものだということに気づいて、あとは淡々と繰り返す。いつしか部屋の外に出る。すると光が満ちている。それが当然だと認めて死ねばいい。


    失うこと(嘘のように響く言葉)が何もかも前提で、満たされているのなら何を望めばいい。そういう疑問が成り立つこと自体が気持ち悪い。


    小説の中で愛の奇跡なんか起こさないでほしい。そこにどんなに美しく素晴らしい奇跡があったとしても、また、素直にそれ自体が美しいものだったとしても、それは手段としての小説でしかない。小説は目的でしょうと言っているんだけど、だからといって自己撞着した小説を認めないのではなくて、矛盾が生む美しさは肯定されるべきだけど、ただの空想はそれが考えられたものだとしても結局は「考えなし」だから、どんどん一蹴されていくべきだと思う。「エンターテイメント小説です」と名札をつけて歩くのならまだいいけど、それならそれで、道を歩いている途中で刺されても文句が言えないことに同意しているんだと見なす。


    議論の余地のなさ、無駄さが規定する法があり、しかしそれに好みで対応することはできない。


    死ぬまでの絶対的な時間が未来であり、今である、という認識が基礎になっているのであれば、「今だけが確か」とか「未来を信じて」という言い方に賛同できる。


    死を目下の恐怖として認識できないことが、おそらくは普遍的な死の恐怖というものの原因になっている。


    素直な人を見てるといらいらしてくるのはたぶんにわたしの性格が悪いんだけど、そうでないときも結構あるのでそこの線引きがわずらわしい。善良な人は本当に手におえないっていうのは、文学や哲学が永きに渡って繰り返してきたように、もちろんあるんだけど、応援してあげたくなることもないわけではなくて、それが気まぐれなのか、その人の中に真実があると認めているのかがいまいち判断できない。だから二重(三重かな)に素直な、善良な人っていうのはやっかいなので、どうしても判断は消極的になる。つけくわえて言えば、こういうプロセスが自分の周囲に存在していることを汲み取ってくれなさそうだという印象を持たせるところもよくないけど、それは憶測の域を出ないので非難の種にはしない。


    自己肯定をわざわざするということは肯定しないとやっていけないと自分から認めているわけであり、それが流行っている世の中のこの状況に疑問を感じないことをおかしいと思わないことに対する批判がおかしなものとしてとらえられてしまうほどの破滅的にだめになってしまった世間。そこからくる生きづらさとあいまってか、10代の後半からいっつも時代や世界が終わってしまいそうな感覚がしているんだけど、それはただの感傷なんだろうか。



    log(京都)上のほうほど新しい。

    12/19(fri)

    星座に明るくないわたしでも、オリオン座と北斗七星くらいはわかる。星座は二次元的な理解から生まれた星の見方だと思うけれど、その星のそれぞれが全て違う距離にある――つまり三次元的に存在している――ということを最初に思いついた人はすごいなと思う。もちろん知識として星のそれぞれが違う座標にあることはわかっているのだけど、見た目上ではどうしても平面に散りばめられているようにしか見えない。

    あれらの星を見て「今日もかわりばえしない」と思った人もいれば、その先を見た人も確かにいたということだ。どちらの見方がより知性的かとか、そういうことを言いたいのではなく、どちらの考え方を持った人も確実にいたから、こうしてその両方の人に今の自分が思いを馳せることもできる。知りえない人の思考も、こうして知ることが可能になることが、あるかもしれない。われわれの住むこの宇宙は永遠の拡がりを持っているわけではない。広く広く、遠く遠く、でも届く。


    11/6(thu)

    鼻先を雨粒が抓弾く。薬指で水滴をはらう。

    何日か前からご飯を完食できない。煙草を吸うと胃が痛むから肺には入れずに口で燻らす。歌で涙が出ることが多い。

    でもそんなことは問題じゃない。問題じゃない。そう、それは、中心ではない。それはわかるけど、かといって中心に何があるのかもよくわからずにいる。

    明日もトレンチコートを着るだろう。自分の機嫌を取るためだけに。


    10/5(sun)

    こうして、何か書こうと思ったのはかなり久しぶりな気がしていたけど、具体的には2ヶ月ぶりなのか。それは長かったのか、短かったのか、よくわからない。

    かぜをひいて、一日寝込んでいた。ズルじゃないかぜをひいたのはこれも久しぶりな気がする。床に伏せりながら、過去のことを後悔した。ずくんずくんと耳にへばりつく鼓動の音は叱責の声のように思えた。今更何だ、自分から放ったものを扱おうと言うのか、関係を道具か何かと思っているのか。

    けれども、これが自分で選んだものだという気もした。それに対して文句は言えない。理不尽な気持ちになるのはかぜのせいだと言い聞かせた。最初からわかっていた、みじめさを伝えることしか書けやしない。でも、なぜ書こうと、思ったのだろう。


    8/2(sat)

    カーテンの隙間から明るい外を見た。涙でよく知った景色が滲む。どうしてわたしはこんなに弱いのだろう。ひとりでは生きていけない。でも生きていくしかない。何も、手の内には何もない。涙と血がただ失われていくので、いっそ過去ごと質量がなくなってしまえばいいのにと思う。そんな考えが自然なものと思うくらいには今、弱い。かなしい。つらい。終われ。


    7/10(thu)

    ねぇ、本当のこと、少しだけわかった気がするよ。恨まれるかもしれない、それとも笑われるかもしれない、でもどうだっていいんだ、そんなこと。

    笑顔でいられる、いつかそれも忘れてしまうよ。それでもいいって思うよ。ここからそこまで辿りついた一直線はいつまでも消えない。わたしたちが忘れても、真実はそれを忘れない。それでいいんだ、諦めじゃないんだ、やっと信じられるんだ。何もかわらない日がやってくる、でも変わっていく、でもでも、寂しくないんだ。本当だよ?


    7/1(tue)

    そこを越えると終わる淵のようなものがあるとしたら、自分は今そのぎりぎりのところに立っている。とは言ってもまだまだ世界をひっかき回したいので死ぬ気はさらさら無いのですが、なぜだかそんな気がしてしょうがないので遺書を認めました。このページを見ている中にきっとわたしに程近い間柄の人もいると思います。その人にお願いしたいのですが、一応最後に言いたいことを纏めたので、わたしに何かあったらどうにかわたしの家族と連絡をとって、わたしのPCのマイドキュメントにあるwill.txtファイルを開き、そこに名前があがっている人にそのファイルの文面を伝えるようにと連絡して下さい。

    もし何もなければこのことは季節が過ぎ去るのと同じような仕方で忘れて下さい。とりあえずそれだけです。まだ死にませんし死ねません。


    6/29(sun)

    書きたいこと、書くべきと思ってたこと、いろいろあったんだけどな。自分が定まらないから、いつも書くことでそれを確定させようとしてきた。しかし言葉は檻を出て行ってしまった。からっぽで、いかに言葉でどうでもよいことを言ってきたか、わからされた。

    3拍子のメロディ、解けそうな和声。それは何かを示唆しているけど、やり方を教えてくれるわけじゃない。それでもこの曲が自分のしたいことになれば、って思う。自分の根っこには、やっぱりまだ気持ちが残ってる。信じてる。


    6/21(sat)

    あなたは白い肌を気にしていた、だけどわたしはその肌が、何の屈託もなくきれいだと思っていたんだ、本当は。

    何度も何度も「ずるい」と言われた。こうしたやり方を採らないと生きていけない自分は根本的にずるいのだと思う。

    それでも言うよ。勝手にエピローグをつくるなよ。わたしじゃなくたっていいよ。失敗だってするさ。生きてるから、生きてれば経験すること、全部経験したいじゃない。言いたいことがたくさんあるんだ。

    そういう直接的なことは言わないで、決意の固さだけ表現して携帯を閉じた。大事なことはいつも夜に起こる。本当に頑ななのは自分のほうだと思う。それでも自分はこの上ないくらい人間をやってる。そうあってほしい、あなただからそうあってほしいと望むんだ、あなただから。


    5/29(thu)

    この先、ずぅっと気を張って、でもうっかりして気が抜けて失敗して、そこから自力で立ち直らないといけなくて。そんなことを、ずぅっと繰り返していかなきゃならないんだ。そう気付いたらそこで気持ちが終わってしまう。理屈としても、感情としてもそれは仕方のないことなのかもしれない。

    でも自分が死ぬことで、もし誰かが本気で泣くのなら、それは何より避けなくてはならない。誰かが泣くことをしょうがないこととして扱う理屈なんか絶対間違ってる。


    5/13(tue)

    きょうも眠れないで、きのうを引きずったまま一日がまたはじまる。冷蔵庫から取り出したマーブルもグミも冷えて味よりも硬さがまず感覚にあらわれた。

    現実のことにはいつもたちうちできないでうろたえる。かと思えばそれをいいように扱って自分勝手に去年は生きた。違うなぁ。いつでも自分勝手で、それが最近は通用しなくなってきた。

    何もかも潮時かもしれない。何をなしとげただろう。しかし、何も成し遂げないほうが自分らしい。そういう考えが一番しっくりくると思うわたしは最初から終わっていた人間だったのかもしれない。潮時、か。


    4/28(mon)

    イチョウの葉が、青々と、枝にぶらさがっていた。イチョウの葉が形を成したということはこの葉が秋に暖色へと色を変えるということが確約されたのとほぼ同義と考えてよいだろう。因果律は経験のもたらすものにすぎないというヒュームの主張を少し身近なものとして感じる。時間は本当に過ぎていくのだ、都市伝説のようにしか信じていなかったけれど。

    何度も感じためまいに、抱かれるように今日も眠る。それも「悪くない」と感じながら、「よくもない」と思うことで自分を保っている。いつかだったらその主語は濁して書いただろう。それがどうしたと、一日はもう店仕舞いどころか開店準備に取り掛かっている頃だった。


    4/22(tue)

    ハンドルを切りながら彼は言った。

    「別に君がそう間違ってるとは思わないな」

    左手の人差し指に煙草を挟んでいた。高速のオレンジ色のライトが目まぐるしく手元を過ぎ去る。

    「でも」

    そこで止めたのに、後に続く言葉が漏れ出て伝わっていくようだった。

    「俺はあなたの生き方が羨ましいよ」だからそういい直した。「あなたは生きるのが上手だ」

    彼は言い澱んだようだった。いらないことを言ってしまった、と思った。煙草を一吸いして、煙を吐く。空間がオレンジ色を帯びた。やさしい色だ。

    「僕は生きるのが上手なわけじゃない。ただ、以前僕がとっていた方法では生きるのがむずかしいと思った。だからそれ以外の方法を探した。それがたまたま受け入れられやすい方法だった。うまくいく何かを掴んだ気がしてうれしかった」また煙を吐いてオレンジ色に空間が染まる。一時、やさしさを帯びる。これは本当の色じゃないことはなんとなく感じていた。

    「―――」トラックが横を通り過ぎた。その音で彼の声はかき消された。けど聞き返さなかった。いまこの瞬間はもう二度と訪れない。訪れてはいけない。そんな気がしたから。

    道がまっすぐに続いている。僕もこの人も同じところへ向かっている。それは比喩になりきれない現実だった。


    4/20(sun)

    気持ちはこだまして摩擦係数を無視して達成不可能な無限のエネルギーをはじき出す。そうやってやっと言葉になる。「あー!」って。物理法則をひっくり返すこの営みをこの世界のなかでだれも知らないのだろう。

    広く感じる部屋にブラームスの2番が鳴る。場違いだ。曲じゃなくきっと自分が。


    4/6(sun)

    地下鉄のホームへと階段を下る。行き場のない、むなしい風が前髪を撫でた。

    京都駅前のスタバでキャラメルフラペチーノをつついてみる。同じ店の違う席で、同じ人を待ち続けたことがある。わたしはあのときよりも確実に悪い人になった。でもきっと今、とても穏やかな顔をしてるんだと思う。キャラメルを奥歯で噛み締めたら、笑ってるみたいに見えるのかな、そんな風に思ったりしてみた。


    3/31(mon)

    一面の花畑。この場所で花を踏み潰さずに歩くことはできない。

    本質とは何か。本能的なものか。歩きたいと思うことと、花を眺めていたいと思うこと、それらは別々の衝動の拮抗でしかないのか。花を愛でる気持ちは美学的にか分類されえないものなのか。

    花も見ず、歩かず、ただ空を仰ぐような回答が本質だと信じたい。それは信じることでしか得られない答えなのか、それとも、いつかこの寄る辺なささえも春風とけてゆくのだろうか。漂う香りだけがただ鼻を擽り続けた。


    3/29(sat)

    大人ってバカね。たった数時間のために、意識を鈍らす液体に何千円もかけて、信じ込むことでしか得られない幸せにすがりついて、挙句「これでいいんだ」って自分を説き伏せたり。本当にバカみたい。あたしはそんな大人にならない。

    「そんな風に思ってた」。あなたはそうやって次の言葉を紡ぐんでしょうね。桜の木漏れ日を浴びて、阿舎で本を読んで、その本のわけのわからなさに自分を「ちっぽけだ」と思ったことすら忘れて。でもこれだけは忘れないで。あたしはきっと間違っているしこれからもずっとずっと間違ってる。そっちから見たら、あたしは永遠に間違い続けるのよ。けど勘違いしないで。「あなただって今まで一度も正しかったことなんかないのよ」。

     

    僕ならそうやって過去に否定されたい。過去は人の厚みだ。過去を捨て生き方を変えた人はうすっぺらに削れてなくなっていくんだ。

    こんな、ヴィヴィッドなやり方を選ぶくらいに僕は焦っている。何に?それを言わないことだけが、昔と同じさ。


    3/28(fri)

    リアリティがあるものはそれだけで貴重だけど、リアリティを全く持たないもの、全くの虚構の上に成り立つもの、すなわちリアリティを根本から否定するものはリアリティの非存在という立場からリアリティを規定しているという点で同等に貴重だ。

    しかしそれが表舞台に立つことはない。それは掟のようなものであり、同時に、掟であってほしい誰かの願いなのだと思う。


    3/9(sun)

    ジッポをちゃんと点けられたときは重低音がする。ほんの少し。耳に響く低い音。

    約束は果たせないかもしれないからしないのではなく、果たさなくてはならないからこそするものなのだ、やはり。穏やかであることはきっと許されて可能になる。それは義務と引き換えにして得られるとか、そういう打算的なものではない。気付かされた。それだけ。


    2/23(sat)書くからには触れなくちゃいけないんだろうな

    思い通りにできるのは言葉くらいだと思っていた。そうやって勘違いしていつも失敗することを、忘れていた。

    被った雪を払い除けた手が行き場を失っている。この手も、指も、唇も、声も、もっと異なったあり方をすればいいのに。ピーコートのポケットの中の携帯を握り締めた。いつかそうしたように、またいつかそうするだろう、そのときのために。忘れない、ように。


    2/20(wed)

    普通に生まれて、普通に育って、ときには泣いたり、でも笑えるようになったり。そうやって過ごしてきたんだ。それ以上のことは知らなくていい。正直にそう思う。

    真理とか、確かなもの、そんなのない(って言いきることさえ意味がない)ってことを知っている人間は、知っているだけで。せめて「知っている」ということを目配せするぐらいで。それでいい。雨宿りの軒下で誰かと居合わせるようなものさ。雨が上がれば、それぞれに行き先がある。偶然に感謝こそすれ、日常はずっと、直線のままだ。心配なんかいらないんだよ。


    2/18(mon)

    伝えたいことがたくさんあるのに、うやむやにする術ばかり覚えてしまった。いや、たくさんある、ってのは嘘かもね。どれも一つのところへつながっている。たったそれだけのことがいつも言えずに朝になる。夜はいつでも長いから、きっと誰よりも長くそばにいたような気がするのかもしれない。

    「誰も寝てはならぬ」、大切な何かに気付かないままに。さもなくば日が昇っても明日がこないだろう。


    2/17(sun)

    軍艦島のDVDを観る。廃墟は、居住者という意味を失った住居のなれの果てだから、仮に廃墟の写真を撮るとすればその写真は一切の意味を成さない。それが素晴らしい、と思う。

    空虚な対象、無意味な関係性。少し似ている、と思ったのは誰にも言えずじまいだ。信じ切れないのは自分が正しいのかどうかと同一線上にある問題なのかな。


    2/15(thu)

    影に紛れていた煙が朝陽に明らかにされる。まるで光の壁に衝突するように爆ぜた。

    朦朧としていく意識の中で、思い出す。日付感覚を失っても、空腹を煙草で誤魔化しても、感覚は尺度を簡単にこえてしまう。

    遠近法、だと思った。近さと遠さは同一の概念でありながら、同時にどこからか明確な隔たりがある。それは見えない。何かを描こうとするなら、きっとそれを目にしているはずなのに、それがきっかけになるはずなのに、見えない。

    ついでのように見えないものもあって、それは忘れたいと思いながら、目を閉じた。乾燥機がまわって、ボタンが打ち付けられる音だけが、客観的な情報だった。


    2/3(sun)

    鎖骨に浮かぶ三角座。こんなの、今まで生きてて気付いたことなかった。自分でも知らない自分のことを、いつも、教えられる。星座と違ってこれはいつか損なわれてしまうから、せめて覚えておこう。表情といっしょに。

    いつか、日付も覚えているいつか。吹きはじめた次の季節に凍えて、寄り添わずにはいられなかった。それが流行り病のようなものだったとしても、治すべきものもあれば折り合いをつけるべきものもあるのが病というなのかもしれない。そういうところに、着地した。苦笑いがこみ上げた。コンビニの人がまちがえてつけてよこしたストローでコーラを飲んだ。


    1/31(thu)

    夜闇は窓に自らをうつしとる

    昼間はそれはどこへゆくのか

    忘れたみたいにして生きてる


    12/24(mon)

    じつは、よく考えないで口走ったんだ。でも、言ったあとで気付いたのは、考えていたからこそこの言葉に辿り着かなかったんだ、ということ。答えなんかどこにもないよ、そういうフレーズがこめかみあたりを掠める。うん、そうかもね。そうだとしたら、今までやってきたことの無駄さ加減に、力なく、眉をハの字にする感じで、笑ってもいいのかもしれないね。

    笑い方、君は思い出させてくれるかな、僕は思い出させてあげられるかな、少しずつ、少しずつ。


    12/19(wed)

    深々と雪が降り積もる森。電池の切れたおもちゃのように、誰のものにもされていない雪面に横たわる。静かだ、剃刀が手首に赤い線をもうける音さえ、雪に吸われてしまう。一面の白に赤が、文字通り音もなくしみのようにひろがってゆく。唯一音が存在すべきは、頭のなか。最期に聴くならゴールドベルクのアリアがいい。

    そんな情景を、白昼夢のように想像しては愉しんだ。誰かが言った。死んでるように生きてる、と。そうかもしれない。でも、そんなことはたいして重要じゃない。根拠はない。ただ、いまのところは、生かされている――という、気がする――それだけで生きられる。


    12/16(sun)

    この季節になると、わたしの手は、外気とあわいをなくすかのようにつめたくなる。もう何年も前からのことだ。その手でさまざまなものに触れてきた。誰かの記憶に、その情報は残っているのだろうか。灼けるようにつめたいこの手のことを、わたしのひとつの要素としておぼえている人は、思い返したことのある人はいるのだろうか。

    プロローグみたいなモノローグ。よしなよ。物語にしたって客観視できるわけじゃない。結末さえ決めかねているのに、ろくな話になりはしないだろう。でも価値なんてもたなくてもいいとも思う。ただ自分が記憶していて、あとで顧みたときに、そのときとは違った感情を呼び起こすことができるようになったらいい。そんな風にも、思う。


    12/14(fri)

    疑っちゃいないよ。それはまるで笹舟を川に流すような緩やかな気持ちにも似て、いつまでも沈みませんようにと願うには、わたしは少しばかり大人になってしまった。

    疑っちゃいないよ。ただ、信じるには、

    次の言葉を思う前に飲み物が切れたから、買ってこようと思った。助かった、なんて思うなよ。その忠告さえ場しのぎでしかないのだけれど。


    12/11(tue)

    ためらいはいつの日も同じように喉の奥にひっかかる。変わりやしないのなら、毎日違う対応をしてみるよ。まだ「学習した」というほど、失敗を繰り返したとは思わない。


    12/2(sun)

    適切な言葉を持たないこと、それに気付かずして何か物事を述べることを、嘘と言うんだろう。はじめてそう実感した。

    簡単な言葉、以前なら容易く口にできた言葉。以前と違うのはその言葉がもたらす結果。でも意味すら違ってくるのかもしれない。それを確かめたいと思いながら、とりあえず木曜日まで持ち越す。小さな単位での先送りばかりで、長距離を走るという意気込みでいなかった身体には少しだけ堪える。


    11/27(tue)

    泣いている人に大人も子供もないのだと思った。つられて自分も泣いた。サッシを伝わってしのびこんでくる冷気にひっそりとした嫌悪感を感じつつ、腕の中の逃げようとするものを抱きしめた。

    わたしたちはお互いが特別「だった」。でもそれはあらゆるものごとの最後じゃなかった。それがわかったから笑えたのかもしれない。ごはんをたべる約束をした。年末を少しだけ楽しみなものに感じている自分を、違う意味で、笑った。


    11/16(fri)

    ふいに、思い出してしまった。体重とか、身長とか、首筋からする香水の匂い、髪の香り、腕枕したときの位置、とか。キミはいつだってわたしの襟を掴んで寝息を立てた。抱きしめるたびに「こんなに小さいのか、」と新鮮な気持ちになった。

    昼間の髪を透かす光が、分け隔てなくわたしたちをただの二人として照らしていた事実が確かにあった。

    横で笑ってるイメージが理想だった。ISOを間違えた写真みたいな冬の空に、そのまぼろしは白く融けていってしまった。あと何回、誰に、さよならと言えばいいんだろう。それもわからないまま、次の人を好きになってる。12月になったら、それもこれも、忘れてしまうのかな。さよならって、そういう意味なのかな、なんて、冗談。


    11/4(sun)

    微細な違和を感じる。無視できる範囲だけど、いつかの自分だったらこれは無視しなかったし、きっと無視しなくて正解だったと思うはずだ。しかしそれを徹底させるほどの気力がもうない。曖昧な天気にはぐらかされて、自分の枠ごと気持ちが拡散していくのを感じる。風にのってどこかへ行けたらいいのにね。キミのところか、キミとはもう一生会わないようなところか。


    10/26(fri)ストラップを外して、

    布団から出て、ジッポや、ティーサーバーをどうしようか考える。

    鼻をかんで、顔を拭ってみても、今夜一晩、それはずっと無駄なこと。

    さよなら。今までありがとう。


    10/21(sun)ねえ、

    もう気持ちを失ってしまったよ。あんなに好きだったのに。あんなにいなくなるのが怖かったのに。桜の花が散ったらその木が桜であることを思い出せなくなってしまうように、風に乗って遠くなって、見えなくなった。

    あさって誕生日だよね。お祝いたくさんするよ。生まれてきてくれてありがとう。わたしと出会ってくれて本当にありがとう。それがうれしすぎるからきっとこうして涙が出るんだね。そうだよね?


    9/25(tue)「いちごを見つけて幸せだったのに」

    それは嘘の中のほんとう。

    終わりははじまり。でもはじまりは終わりじゃなかったよ。

    メールしよう。していこう。微笑みと、心に小さな痛みを忘れずに。いつも、いつでも。


    9/17(mon)

    それじゃあ、一緒にいるとお互い嫌な人間になっていくってことだね。

    ここ、笑うところなのかもしれない。むしろ、笑われるところなのかもしれない。それがおかしくてしょうがない。いつまで続くかな。でも根本的な問題なんかどうでもいいからいつまでも続きたいとも思うよ。好きだよ、大嫌いだよ、それでも好きでしょうがないのさ。


    9/7(fri)

    勝ち目がないのではなくて、勝っても何も得るところがなかったのだなと思った。下がらない熱を和らげるような季節のうつりゆきを視認しながら、具体的な気休めの到来を待った。自分はどれだけ礼を尽くさない人間になったか、あるいは以前からそうであることに眼をそむけていたかが、まざまざと理解できた。

    先が見えないからこそ先を見るべきだとずっと思っていた。それが、なぜか、白々しい色褪せとともに薄れていこうとしている。それを受けてどうすべきかまだ判然としないし、判然とさせるべきなのかさえよくわからないので、なんとなく見守っている。この情景を美しいという向きもあるのだろう、とか考えながら。


    9/3(mon)

    くりかえしの世界の中で、どんな感情もくりかえさない。いまはここにはない、かつてそこにあった蝉時雨。明日、あるかどうかわからない、蝉時雨。そういう意味で何もわかっちゃいないんだ。いつだって自分だけの物語の中で勝手なクライマックスを編むのがわたしの悪い癖なのだ。


    8/5(sun)

    セブンスター吸ってる人はものすごく情緒不安定な人間なんじゃないかと思ってしまう偏見を持っている自分がいまセブンスターを吸っている。それでも吸わなくちゃいけない、でも、抱きしめられたらいらないんだ、タバコだけじゃなく、何もかも。

    何もわかっちゃいない、キミもわたしも。でも、そういう二人だからわかりあえたのだとも思う。心から感謝したい。ひっくりかえって、もう起き上がれないセミが最後まで鳴ききった。心から感謝したい。自然は現実の比喩だ。心から感謝したい。唇がいつか腫れるんじゃないかって、笑える不安なんてはじめてだよ、心から。

    長すぎる夜だったから、朝日はまぶしくて見れやしなかった。


    7/28(sat)

    「たとえば人はとても美しいばらの花の棘に刺されて、単純にばらの棘に刺された、苦痛だ、とだけ、本当にそれだけのことしか感じないだろうか?」


    7/18(wed)

    悩みすぎて悩んでいること自体に自信がなくなってしまった人や、また自分がそうなったときのために、備忘録的に記しておく。

    人は人が知る以上のことを思っていて口には出さない。そして口にしていないことは伝わらない。しかし直接的に伝わらないからといってそれが断絶を示すかというとそういうわけではない。なにかの拍子にある人のことがわかった、と感じるのはただの強い思い込みにすぎないが、それはわからないことをわかろうとする積み重ねの末に生ずるもので、決して無価値なものではない。人の気持ちは重層的にできているから、然るべきときにそれらは醗酵して別のものにり、その芳しさは発散される。付き合いが長い相手なんかはむしろ、言葉よりもその芳香でやり取りをしていると言ってもいいかもしれない。それこそ腐敗してしまうこともあるけれど、人の気持ちの樽は思っているよりも奥深いのでやり直しがきく。


    7/13(fri)

    あるいは、そういうところから疑ってかかるべきなのかもしれない。希望の形をした絶望なんて、そこらじゅうにころがっているのかもしれない。

    木漏れ日は闇を喰らう光。美しい光。しかし、適正露出かというと必ずしもそうとはいえないのだ。

    どちらにしろ雨の日だから関係ない話だ。携帯はいっそ見なかったことにする。


    7/11(wed)

    魔法が使えるわけじゃない。自分じゃなくてもいい。特別なことは何もできやしない。身勝手な優しさしか押し付けられない。それでも信じている。何を?自分にだけ都合のいい運命なんて言葉、歌詞にさえ出てこないのに。

    明日からでもなく、今日からでもなく、今からでもなく、過去ごと組成を変えてしまう。そんなことだって、できやしない。言い訳だってしたくない。何も、できやしない。

    しかし、


    7/8(sun)

    信用できるものを増やすのは難しい。具体的であることの説得力はかなわないものがある。

    瓦解はするだろうな、と素直に思う。それは、何かがあれば、その何かがじゅうぶんに瓦解させるだけの力があるのなら、それはどうしようもないことだ。しかしながら単純に考えて、それが努力への妨げ、あるいは免除に繋がるという論理はやっぱり存在しなくて、すべきと思ったことはすべきだという事実は微動だにしない。

    おかしいね、濃い霧がかかったとしても山が動いたりはしないのに、そんなことはわかっているのに、ただそれだけのことで簡単に見失ってしまうのは。

    おいしい紅茶を淹れられるようになろう。ついでにコーヒーも好きになってもらおう。年中チーズケーキの名店を探し、春には桃とさくらんぼを、夏にはシトラスを、秋にはマフラーを、冬には毛布を用意しよう。合間に写真を撮ってもいい。たまに思い出を、詩を諳んじるように詠おう。そんなふうにこれからを過ごしていこう。


    7/5(thu)

    忘れ傘を見て、これは、忘れられているのでも、捨てられたのでもなく、次の出番を待っているのだ、と思ってみる。幸せで、罪のない、後付けの理由をたくさんつくり出したい。それがバタフライ・エフェクト的にどこかの誰かに伝わればいいな。そんなことを考えているうちにATMが空いた。忘れないようにしなきゃ、と思っている自分はひどく無邪気のように思えた。


    7/4(wed)

    あっちかこっちか、どちらかに弁別されるような生活をしてもな。

    「分ける」ということは「分けることができる」ということが前提になってるから、分けようが分けまいが実はけっこうどっちでもいい。分けられないこと、分けることが可能か不可能かわからないことに直面してはじめて頭は働く。複雑にしたいわけではなくて、ものごとは元から複雑なのだということを明らかにしたい。それだけ。

    「じんわりと見えてくる気持ちに

     誰も知らん顔で 風に巻かれている」

    「それはまるでふざけた映画さ」


    6/28(thu)

    眠れなかったから朝ごはんを食べてしまおうと思い、鍋いっぱいのお湯に、パスタをの束を少しねじって、花のように入れる。容易く作ったたらこパスタをなんの感慨もなく食べる。

    昨日と同じような日がはじまる。そんな考え方では長続きしないよと思ってみる。でも、他にどうすることもできなくて、それは、もうシンクへ洗い物として運ばれてしまったお皿を選んだやり方と、今手持ちがセブンスターしかないからセブンスターを吸うのと、どう違うんだろうなと思う。本当に、どう違うんだろう。

    簡単なことほどどうしようもなくて、まだ本質に触れられていないのだなと思い知る。それは子供っぽさではなくて幼稚さそのもので、いまさら恥じることもできずに、目下身支度でもして忘れるほかないことで、きっと実際そうしてしまう。

    思考が細くきりもみをしながら落ちていくように感じるので、着地もしないでとりあえず打ち切った。あかるくなった空を見た。


    6/24(sun)

    景色を見なくなったのは目が悪くなったせいかな。それならコンタクトにでもしようかと思うけど、それで解決することかな。爪を削る。近くのものはよく見える。タバコの煙がモニタを撫でて消えていく。

    ストリーミングのバーを見て、どんなこともこうしてその場しのぎなんだなと思う。追いつかれなければいいな。不安は嫌いではなくなったけど、まだ好きでもない。


    6/20(wed)

    書いたけど、消した。

    「去年の夏も」って言える。厳密にはまだ言えないけど、もうすぐこの言葉が価値を失うことで他のことがらに価値を与えるようになる。「週末は映画」とかうすらさむいことを言ってるなあって思う。オザケンみたいな歌を書けるような気持ちになって、それはそれで、と思いながらなるべく無邪気に笑ってみる。


    6/15(fri)

    最初にミントとチョコレートを邂逅させた人物に敬意を表す。アーモンドのビスケットとチェリオを213円と引き換えに手に入れる。

    コンビニを出て禁煙気味だったタバコに火をつける。邪魔そうに徐行する車を思い切り睨みつけながらのんびりと横断歩道を渡る。軽い眩暈がしたから、工事現場のパイロンをただ吹っ飛ばすためだけに蹴り上げる。赤道直下まで届くような勢いで地面にタバコを投げ捨てたが、案の定アスファルトに負けてしまったので腹いせにエレベーターを殴りつけた。

    悪行の限りは尽くした。この罪が醸成されて明日の朝には聖人になれていることだろう。それがどうした?まったくもってクソくらえだ。アイン・ツヴァイ・ドライ・フィアでマーラーの6番がはじまる。ハンマーで自分の中のちっぽけな英雄に止めを刺したら寝ようと心に決めた。


    6/6(wed)

    意識の流れを意識するということは、絶えず意識を含めた何らかの対象を追い続けるということで、それはたぶん河を小船で下る行為に似ている。水面のきらきらに目を奪われて、次第にそれ自体が目的になり、最初から目的などなかった、という結論を思いつくことができれば(あるいは、「思い出す」ことができれば)、それは集中のまったく新しい様相なのではないだろうか。


    5/30(wed)

    きっと風邪をひいた。

    どれもこれも不安で、そのどれもこれもがささいなものだ。確実なことなんてなにもないから約束をとりつけていく。その約束が守られることだって確実じゃないけど、そうやって世界の根底をわかろうとする。そういうスケールの考えが、明日の天気はどうなるだろうっていうレベルの話題に集約されたら、きっとずっと何かが水平線みたいに何事もなくつづいていく。


    5/18(fri)下手の考え休むに似たる

    語感だけで選んだような人生観で悟りでも得たつもりか。


    4/30(mon)

    食事を摂ることを惜しんでは唇でお互いを貪りあった。言語から感情は生成されるはずななのに、行為以外の言葉は全て言い訳のように響いた。


    4/25(wed)

    こぼれた灰に水を垂らすと、まばたきしてないのにいつの間にか黒い水溜りになる。それくらいの捉えきれなさで、あるいは、それくらいの捉えきれなさが、ある。

    なんとなはしのタイミングで「おやすみ」と言おうとしたら、「おやす」まで打った瞬間に「おやすみ」と書かれたメールの受信がはじまる。それくらいの捉えきれなさで、あるいは、それくらいの捉えきれなさが、ある。

    そういうことの結論を見つけたいだけなのかもしれない。


    4/22(sun)

    善悪の判断に関して鈍りが生まれたときはたいがい自分が悪い。そんなことはわかっていたのに優しくできなかった。送信履歴を見ながら、名状しがたい気持ちを簡単な言葉で呟けばいいのか、簡単な気持ちを名状しがたいかのように呟けばいいのか、わからなくなる。

    携帯をふたつに折りたたむ。するとそれはあまりにもあっけなく目覚まし時計でしかなくなってしまう。


    4/19(thu)

    怖いから、階段を降りるときは、あまり一段飛ばしはしないのだけど、今日はしてみた。前に出したほうの足が一瞬ぶらんとなって、ひとつ下の段につま先が叩きつけられる。神経を集中させているので、床が固く感じる。いつもよりずっと底の薄いスニーカーが心もとなくて、もうやめよう、と素直に思った。

    ショーウインドウから、とても生々しくつくられた人形が道路をひたすら眺めていた。日がな一日通り過ぎる人をや車を見つめていたらこんな顔になるのかもしれない、と思わせるような表情をしていた。


    さびしいのもうれしいのもみんなあなたのせい。


    4/18(wed)

    さいきんコーヒーを飲んでいない、と思いながらキセルの歌詞を検索していたら、思いがけず懐かしいページに行き当たった。やっぱりいつまで経っても忘れられないのだろうか、とか運命によく似た言葉に収斂されてしまいそうな下らない思考の流れになったので、それを断ち切る。コーヒーとは重要性において比べ物にならないけれども、思い出すそのやり方は同じでいいはずだと思った。そうだよね?と誰にともなく念を押しては、今日という日をいいかげん諦めた。


    4/17(tue)

    遠い昔の映画で聞いたはずの音楽は映画のそれよりずっと遠い昔、すでに奏でられていたはずで、その響きにふれることはもうできないのに、こうして思いを馳せることができるというのはひとつの関係なのか、それとも関係に見せかけた断絶なのか、あるいは、関係という概念がとても主観的なものになりうるという好例なのか、ということについて。


    4/16(mon)

    あるいは祈り以外の言葉を持つことができないという問題。それだけのための月曜日から金曜日。戸惑いながら期待に応えることはこんなにも。

    「ね。」「ね。」

    いとおしい。


    4/8(sun)

    「孤独に歩め 悪を為さず 求めるところは少なく 林の中の象のように」


    4/2(mon)

    「口にしかけた嫌味を飲み込んで腹を壊したという話は聞かない」。


    3/24(sat)

    ひらがなでしかあらわせないような気持ちばかり。水やりに苔の玉をお椀につまみいれると、ぷかぷかと浮く。かわいてる。

    幼稚だと思うのなら成長しようとすることさえ間違いだと思う。

    「足掻くと転ぶよ」

    「違う、転ぶときは転ぶってだけだよ、他のことなんか関係ない」

    「そうかな」

    「そうだよ」

    内面の声を紅茶で飲み下す。すると出てきたのはため息だった。


    3/22(thu)

    建設的なことではないけどできたものはまぎれもなく建設物だった。吸殻のパイプオルガン。

    「期待しないで待ってるわ」って。言ってだいぶ経ってからおかしさに気づいた。間が抜けて気が抜けて、一抜けた。


    3/18(sun)

    じいっと見つめている。何を?知らない。でも見つめている。飽きずに。ほんとうに、意味のないことはあるのだなと思う。そんなことが言いたいわけではないけれど。

    言いたいことを書いてはいけない。わかることを書いてはいけない。なぜそう言えるのかを考えてもいけない。そうしないと手に入らないものなのだろうかと疑問を抱くことさえかなわない。それを言う。ただ言う。


    3/16(fri)

    朝になった。それがどうしたということもなく具体的なことばかりが頭に浮かんでは、しかし窓を隔てた空にかき消される。ガラス一枚しか空と自分を分かつものはないのだと思うと、ちょっとした工夫であちら側もこちら側も区別がなくなるような気がする。いろんなやり方があるけど、今日のところはどれもしない。

    電話をしよう。靴紐をきつく結ぼう。楽器を弾こう。右手で手をつなごう。今日は今日のことだけ考えよう。なんとなく、明日はちゃんと明日になってほしいから。


    3/11(sun)

    あれだけ嫌いだった雨の日を好きになれたように―――

    「それとこれとは話が違う」と思ってみる。でも、「いや、同じ話だ」とも思ってみる。

    あれだけ嫌いだった雨の日を好きになれたように―――

    「きれいな青空だ」と思う。これはきのうの雨がなければありえなかった空だ。

    あれだけ嫌いだった雨の日を好きになれたように―――

    あれだけ嫌いだった雨の日を好きになれたように―――

    あれだけ嫌いだった雨の日を好きになれたように―――

    ベランダにふいた強い風が、二の句ごとどこかへ滑り落ちていった。そういうことでも、べつにかまわない。なぜならこれは他のことがらへの呼び水だったのだ。

    窓を眺めやるごとに雲は形を変えて、まるでだるまさんがころんだをしてるみたいだ。そんな気持ちにはなれないけど、笑ってみたり。


    3/6(tue)

    わたしたちは地に足をつけたまま飛べる。

    などと、不用意なことをたくさん言うのだ。そのうちのいくつかは世界によって採用される。ふいに思い出したことや、かなわないと知ってしまったことでも、たとえば誰かへのおまじないに混ぜてみれば、たんぽぽの綿毛が思いもよらぬところで花を咲かせるようなやり方で、救われるかもしれない。かれらは脆いと思わないか。でも堅固だと思わないか。それと同じことだと、思わないか。


    3/5(mon)

    なんだっていいよと思いながらグラスを傾ける。会えなくなって、うまくいかなくたって、変わったって、不安だって、でも浮き足立って、そのまま飛んでゆけると思い込んでしまえる。それが間違いだとしても、たとえばてるてるぼうずみたいな力で届けるよ。そして誰かのためじゃなく、なんだっていいから晴れになれってふたりで思えるようになれればしめたもの。だからずっと無駄なことをしていくよ。なんだって、本当に、いいのさ。


    2/17(sat)

    今更ながら、言うことがある。

    わたしの恋愛観は乙女そのものです。

    あーあ、言ってしまった。


    「ちょっと変わっていってる」

    「そうじゃない、むしろ求めていた本来が仮初めのものだったんだ。それにやっと気づいただけさ。今ならバンプの曲で泣くことだってできるだろう」

    「でもまたひねくれるよ?」

    「もっと正確には、ひねくれてるくせにひねくれてないって言い張りたい。でもそれは、そうするだけの言い分があるからそうしているんだろう。何をそんな不安そうな目をしているんだ。」

    「いや、これはこれで本来の顔さ」

    「そうか、そうだったっけかな」

    「そうさ、きっと」

    「なるほどな。いいかい、感謝するんだ。立ち返らせてくれた人に、何度も何度も挨拶するんだ。そして振り返ることを忘れるな。前だけを向いている人にあこがれることがあるかもしれない。でもそんな連中を小馬鹿にしたいんだろう。劣等感にまみれながら、それでも正しいことを悲痛な顔で探し続けた日々を、忘れたくないんだろう。何もかもが嘘っぱちの言葉の中で、それだけは正直な気持ちだった。今や2つも本当のものを持っているんだ。何だって嘲笑ってやれ」

    「もちろん。なあ、キミみたいな奴が本当に嫌いだ。だが同時に大好きだ」

    「僕もだ」


    2/2(fri)

    「朝陽が昇ればきっと融けてしまうね」

    それは自分の判断のようにも思えたし、雪そのものの呟きのようにも聴こえた。別れの言葉を囁いておくべきだったと思うけど、やっぱり、明日の朝に再会することを望むことにした。


    1/21(san)

    空気中に漂う幸せが露を結んだかのようなその声は音楽的で、それならこの鼓動は場違いなリズムだと思った。

    鼻を擦り合わせて、眠くなくなって。眼前には有形の救い、うなじに感じる先取りのさみしさ。

    「ピングーのタオル洗っといて」

    「了解」

    洗濯機のうずまきの中で踊る幸せが、太陽の光に包まれることを想像しては、微笑まずにいられない。晴れるといいよね。そうだよ、晴れたら、いいんだよね、いつだって。そんな簡単なことさえやっと思えたのさ。


    1/20(sat)

    何やらいたたまれなくなってコンビニでお菓子を買った。帰り道、人も車もいなかったので、両手を真横にひろげて「ぶーん」と言いながらマンションまで走った。飛べないのに、飛べそうで、ひたすら楽しくて、でも、なんだか泣きそうになった。部屋に着いたら温度差のせいで鼻がツンとして、こらえ切れなかった涙が少し溢れた。

    不安や気の迷いが器官を唆したのだということはよくわかっていた。でも、この先何があっても、この気持ちを忘れない。


    1/4(thu)

    根負けしそうになる。認めてしまえと本音がいう。

    しかし、命令形で表れてくる本音というのはどう考えても自分の思考から生み出されたものではなく、明らかに平均とか常識とかを気にした結果の思いこみであろう。そもそも、してもいない勝負になぜ負けるのかがわからない。だったらむしろ否定してやらなければならないだろう。

    自己が絶対的に信ずるに値するのなら、わたしはこんなに間違わなかったのだ。だから歌え。些細な不安は白昼夢だと。


    12/25(mon)

    あなたがここにいてほしい


    12/21(thu)ディアロゴス

    ごめんねめんどくさくて・・・。今日はなんか、ブラームスの交響曲の1番を聴いててさ。

    うん。

    終楽章がね、すごくしんどそうな序奏のあとで、ホルンが穏やかな主題を奏でるところがあって、そこの旋律に"Hoch auf'm Berg, tief im Tal, grus ich dich viel tausendmal"(「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」)っていう歌詞がつけられてんのね。

    うん。

    当時ブラームスはクララ・シューマンっていうあのシューマンの奥さんに恋をしてたの。

    知ってる。伝記読んだ事あるよ。

    うん。で、序奏の部分はすごい形式もわかりづらいし、旋律らしい旋律もないまま曲が進行するの。その苦痛っていったら!たぶんクララへの想いの報われなさがその不安定な序奏なんだけど、あるとき雨雲の間に陽の光が差し込んだみたいなホルンの旋律があらわれて、不安定な空気の全てをガラっと変えて、一瞬のゲネラルパウゼの後で、ものすごく理路整然とした第1主題が雄大かつ朗々と流れ出すのね。・・・それは当然、クララへの想いによって悩むこともあるけど、そんな絶望の淵からブラームスを救うのもやっぱりクララへの想いだったってことじゃない。

    うん。

    普段はそれを意識するたび「ブラームス、よかったなぁ・・・」って思うんだけど、今日はなんかそういう強い心を持ったブラームスが羨ましくなって、すこーんと気が滅入っちゃったんだよね。

    別に気が滅入るとこじゃないよ。そこまで強い心なんて持てる人そういないよ。そうじゃなかったら離婚とか破局がこんな起こるはずない。人の気持ちは変わりやすいもんだ。不安定にもなりやすいだけでしょ。

    うん

    私に嫌われたとでも思った?

    そこまでは思ってない。

    ならいいや。だいじょーぶだよー。


    たまに思うんだけどね。ずっと、正直な気持ちを誰か1人に伝えたいと思いながら生きてきて、今、そういうことを伝える人がいて、でも、そのかわりに伝えなくても苦しいなりに1人でやっていける自分を失った・・・それはどっちがよかったんだろう、と。

    どっちなんだろうねぇ。それは死ぬ時にしかわからないんじゃない?

    かもねぇ。


    ふぅ、しゃべった。

    しゃべったなぁ。

    だからね、普段はこれが言葉にならないのよ。ファーストが表面で細かい音形奏でてる裏でズーって引き延ばししてる低音みたいに、どういう動きをしてるのかがよくわからない。普段はファーストのほうに目が行くからね。

    そだな。

    それであるとき、その動きが逆転してしまう。身を潜めてた低音が急に姿を表して、表面を司るファーストをかき消してしまう。言いたいことがあるなら早く言えばいいんだろうけど、その部分の小節番号まで至らない限りはどうしても形にならない。

    ふふふ。

    うん、まあ、そういう構成の曲が嫌いでなければ、終演までお付き合い下さい。

    おもしろいたとえだねぇ。


     

    高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう。

     


    12/13(wed)

    それは言い訳かもしれないね。

    そんな無自覚を装った、人肌の声色があっていいものか。

    手の先、足の先から冷たくなる。今日も大学には行かなかった。もう冬だけど、これは、つかの間の冷え込み。そういう既にわかりきった欺瞞ですらない欺瞞が目の前にある。それを「これはなんだろう?」と手に取り調べるのは、現実なのか、何かの劇なのか、劇だとしたら喜劇なのか、悲劇なのか。


    11/5(sun)

    涙は、それ自体が土砂降り雨のようなものもあれば、脆い木の家が、猛威を振るう嵐に耐え切れずに零してしまった雨漏りのようなものもある。わたしはというと、最近は専ら、温度差でガラス窓に結ばれた露のような涙しか出ない。外側と内側のどちらが冷たいのか、あるいは、どちらが外側でどちらが内側なのか、わからないけど、ただ音もなく、静かに、集まった粒は加速度を増して、戻ってはこない。


    11/2(thu)

    くすんだ桃色のセーターを買った。「春でもないのに、」と気づいたのは自宅のドアに鍵を差し込んだ後だった。春でもないのに桃色のセーター。

    生乾きの洗濯物は明日の朝まで放っておくことにして、そういえば今日はメールしてないなと思った。本当は昼くらいから気づいていたけど、なんとなくぐずぐずしたままだった。「特別な意図なしにそうしたわけではないことが、伝わればいいのに」と思うのは自分勝手なことだし、伝わったところで「うまくいく」のは自分の頭の中でだけの話だけど、これからミルクティーを飲んで、煙草をすったら何もなかったように送る簡単なメールの裏側には、図らずもそういうことが書かれてしまうのだ。気持ちは見えない。それが悪いことだとは、思わない。


    10/24(tue)

    壁を殴ったことを思い出す。でもあのときは、壁を殴ったんじゃないかもしれない。反作用が真実を反証していた。

    線香花火を垂らしたり、指輪をはめてあげたり、髪を梳かす程度のことだけのために、手はあればいい。物語に頼らずに世界を見出したい。触れられるささやかなものは、そのささやかさゆえに、愛され、赦され、つまり、嘘じゃない。


    種明かしと付記:手紙

    10/13(fri)melancholic moon

    月が憂鬱なのか、自分が憂鬱なのか、区別がついていなかった。区別がつくようになると、そんなことに意味はないのだとわかった。すると本当の憂鬱が訪れ、緑色の風景は秋のように色あせてただ平凡な日常が続く。それはつまり、終わりがあることを暗示しているのだということに、わたしは気づきもしなかった。

    未来を見たのだ。それはいつかの過去になってしまったけれど。


    10/12(thu)くだものナイフ

    心許なくそれはただあって、日々の過ごし方に副って、ささやかに役割を遂げてはまたちゃちな鞘に納まる。表面の銀色に千切れる世界。しかしいつでもそれは充分だった。林檎を真っ二つにできるのなら、手首と腕とにあわいをもうけることも、さして難しくはない。

    いつしか、それが実現されたのかわからないまま、なくしてしまいがちな宝物のように、気づけば必要さえなくなっていた。こうして、誰なのか知らないあなたが刺した傷だけがいまだにただあり続けているということを、あなたは知らない。


    10/1(sun)

    真夜中にきらめくようなハンガーのぶつかりあう音。ウーロン茶で唇を濡らして、前髪を手櫛で整える。明日の練習。いつでもそうだったのかもしれない。つまらない何らかの儀式が大きな意味での今日をひろって明日をつないでいく。

    なんでもない日なんかあるものか。見ることのできない何かが、音楽のように絶え間なくそばにいてくれた。唐突に涙があふれる。


    9/29(fri)

    何を綴っても何もかも間違ってる。いま必要なのは直接的なものじゃなく、ミルクティーや月の光のようなものかもしれない。そうこうしているうちに朝が来て、太陽はいまのところ必要じゃないのにと目を細める。

    人の全身の細胞は3ヶ月で入れ替わる、と何かで読んだ。だったらキミはもうわたしのなかに入り込んで、切り離せないんだね、きっと。


    9/13(wed)

    そういうとき、ヒトはイライラすることしか喋ってくれない。それをわかって今喋ってる。

    椅子から立ち、襟をくつろげ、息を吸う。そしたらあとは眠ればいい。そんなことだけで、この話は済んでしまう。「そんな簡単なことで」と口を挟まれるかもしれない。でも実は、人間の浅はかさを知らずには、人間の奥深さはわからないようにできているのだ。


    9/12(tue)

    何もかも昔のままじゃない。そういうことを「あの昔」に知ることができなくて辛かったというのはなんて切ないことだろう。

    身体は抵抗しても、気持ちは白々しくもまた季節を受け容れる。かすかな不和など見なかったことにする。そうやって、過去のことにしたいわけではないけれど。


    9/9(sat)

    深く煙草を吸って、月に雲をかけた。

    手紙を書く。あと2ヶ月間、何度書き直すことになるかしれないけど、その過程に価値があり、結果すらも過程になるような、手紙。約束なんだ。


    9/5(tue)

    夢から覚めて真実がわかったような気になる。それは、自分の真実か、他人の真実か、よくわからない。「よくわからない」は言い逃れなんじゃないか?それは、もう、わからないフリをする。今日は。明日は?

    まだだ、と、主語を明示しないまま、アイスクリームのカップを捨てた。


    9/4(mon)

    「キズに強い、ヘコミに強い」。わたしは何に強いのか、何に弱いのか。この弱りはなんと名付けるべきなのか。


    8/31(thu)

    止まない雨はないし明けない夜もないが、人は雨の中死ぬこともあれば日の光を見ないまま事切れることもある。気休めにもならないことなら言うな。


    8/22(mon)

    身体の内側の、手の届かないところからじっくりと腐っていく。それでいて、聖化されていくかのような。

    勘違いはどちらだ。そして信じたいのはどちらなのだ。


    8/6(mon)アンサンブル

    普通の人として生きていくことは難しい。内容は違うけど以前にもそういう字面を前頭葉に通過させたことがある、と思った。

    握手・喉の痛み・エグモント。あからさまなこれらを呪文にしよう。きっと人々はみな、小さなおまじないの中で生きている。それが信仰のタネだったのかもしれない。


    7/29(sat)

    悲しいことはみたくないわけじゃない。今はむしろ、悲しいことだけみていきたい。幸せなことを見つけるほうがずいぶんと簡単だ。木漏れ日や、紅茶の薫り、洗濯とかに、幸せだけじゃなく、いつも悲しさを見出したい。いろんなことにいろんなことを思いたい。いつもとても唐突に。そうしてないと世界が見えなくなってしまうから。それだけが避けるべき、一番悲しい、悲しいことだから。


    7/28(fri)

    咳をするたび背中をさすりあう。2人とも喉が痛いからあまり話さないでたのにあっというまに半日過ぎた。

    「帰りたくない」。帰らなくてもいいのに。

    キミといるといろんなことがどうでもよくなっていく。それを悔いる日が来るかもしれない。でもそれすらもどうでもいいと思えることのほうが、大事なことなのかもしれない。人は誰しも世界に投げ出された被害者だけど、自分から自分を投げ出したら加害者になる。キズをつけるんだ。とりあえず首筋に。


    7/24(mon)

    レポートが手につかず現実逃避にもういないあなたの文章という現実を読み返しながら思った。きっとあなたの年齢をいつか追い越して、わたしはそのとき何事かを感じたりするんだろうね。あなたがまだいたときわたしはあなたの年齢になるまで生きることを考えられなかったけど、あなたが笑いもしない日常を送りながら、少しだけなら他の未来も見えるようになってきた。喉が痛むのにまだ煙草を吸いたい。

    生きていることは未来そのものだ。


    7/23(sun)夏の庭

    ふらりと京都駅近くのスタバに入る。キャラメルフラペチーノをつつきながらぼんやりと外を眺める。そこで思わぬ人が店内に入ってきて、どういうつもりなのか、しばらく話をする。しめっぽい話、笑えるだけの話、コーヒーの匂い、なかなか合わない視線、とりとめのない音楽。そんな風景のなかでわたしは、「いまこの瞬間はもう二度とこない」ということにはじめてリアリティを感じてかなしくなる。でも相手はそんなことを知らずに話し続ける。わたしも話す。でもどんどん切なくなっていく。この上なくすばらしい環境の中で、わたしは人生においてもいくつもないであろうすばらしい気づきを得るのだ。

    白昼夢のように、そんな情景を想像した。今日は実際のところ、風邪で寝込んでいた。


    7/21(fri)

    いま忘れられないことよりも、それさえもいつかは忘れてしまうことのほうが本当は悲しいのかもしれない。そしてそれは幸福とも呼べるのだろう。

    結局のことを考えてもしょうがない。

    お土産のアールグレイをたてる。これを飲んでぐっすり寝たいとも、これを飲んだらもう眠れなかったらいいのにとも思う。


    7/20(thu)

    誰も自分を代わってくれないと思いながらも誰かのためになりたいと思うことがある。それは、余計なお世話という。それは、遠まわしな自己肯定という。それは、どうしようもなくみじめな状態だ。それは、それは。それはそれは。

    足りない、と思う。しかしこれは欲望ではない。ただ善くあることだけはいくら志向しても咎められない。それだけが救いだと思う。

    朦朧とゆらめきつつも、それゆえに確かなものを感じる。君のことだけを考える。逃げてる?もう逃げ場なんかないよ。


    泣かされた。涙はもう戻ってこないものの一番の例だ。

    時計を見たり、窓の外を見たりする。あるいは携帯の向こう側を。弱々しく、すがるように。

    でも、へこたれるからこそまだやっていける。飲み物を買いに行こう、また泣くために。泣くのはつらいけど泣きたいときに泣けないよりもずっといい。


    7/18(tue)

    パーティには絶対使わないパーティグッズ。てるてるぼうず。冗談みたいだけど冗談じゃないのさ。

    ねぇ、世の中がなるようになっていくことを悪くないと思ってるよ。それは悲しいことかもしれないけど、でもそれだけじゃないんだって最近気づいたんだ。

    きっと雨だけど、明日晴れるといいなって思った。


    7/17(mon)

    言葉が音楽のようなものだったらよかったのに、と思ったけどよく考えてみたら、言葉は本来音楽のようなものだったはずだ、ということに思い至った。自分の言葉が音楽的じゃないだけだった。

    きれぎれに人のことを思い、昔の感覚を大事にしながら、これからのことを考える。

    外の天気はすぐれないけど今日はそれがあまり気にならない。理由はなんとなくわかってる。煙草でひさしぶりにむせた。


    7/15(sat)

    不安に過去の経験は活かされない。不安なものはいつでも不安だ。

    雨が降ってて、人の気持ちも天気予報みたいなものかもしれないと思った。外れるときは外れる。

    煙草をすう。冷房が強すぎる。お茶を口に含む。

    そんな情景描写が感情の投影だなんて馬鹿げてる。明日になればきっとそれがわかる。まとわりついてくる退屈ごと、笑い飛ばす。


    7/1(sat)

    ありがとう。さようなら。


    6/21(wed)

    きみは「あたしの力ではあなたを幸せにすることはできないのかもしれない」といった。

    わたしは、別にそれでいいじゃないかと思うんだ。人は自分の力だけで幸せになることはできないし、それが2人になったところでそんなに変わらない。近しい存在は絶大な力を発揮するときがあるけど、発揮しないときもある。大事な誰か気持ちを支えられるのは自分の気持ちだけじゃなく、他のいろんな力も働いている。その一部となることを望むのが重要なんだと思う。むしろ、そういういろんな力によって大事な誰かが幸せになっているところを見るのを自分の幸せにするんだ。自分のことは非力だと思いやすいけど、変な責任感を覚える必要はない。

    誰かを想おうとする気持ちに嘘偽りがないのなら、あとはその気持ちをどうやって肯定するというか、正当化していくかを考えればいい。迷わなくていい。わたしはきみが絶望のふちに立ったとき、自分の言葉だけがきみを救えるとは思わないけど、全力できみを救おうとするだろうということに関しては命をかけてもいい。自分にできうるだけのことしかできないのだから、答えはもう決まっている。大事なことは大事であればあるほど考えなくてもいいようにできているんだ。


    6/19(mon)

    きみは「うまくできない」とよくいう。わたしはそれに「俺もだ」と返すことさえできればよかったのかもね。


    6/4(sun)

    考えることがぜんぶ焼き直しみたいだ。人の中にいればそこにいたぶんだけ人のことがわかるようになってしまう。それが客観的にいいことかわるいことかが重要なのではなく、いいことだと、わるいことだと、どちらかに言い切ってしまえるような気持ちが重要なのだと今更気がついた。いつの間にか中途半端に大人になってた。

    もう、何事もそれなりにわかった風にしか対応できないのだろうか。「そんなことない」と思いながら日々をやっつけていくのは、惨めすぎる。


    5/28(sun)

    人の目にふれるところで何らかの自分を晒すというのは、本人がどう言おうと、誰かにわかってほしいという魂胆がある。そしてわたしは、そういう雰囲気が嫌いだが、それはつまりそういう雰囲気が嫌いだということをわかってほしいということなのだろう。

    そういうことは、ずっと、わかってたのにね。野暮なことは、言わないようにしてきたのにね。後悔するから。

    でも後悔しない器用な生き方のほうが、後悔する生き方よりも疲れる。すごく疲れる。だから、やっぱりそれはウソなのだ。「人が嫌いだ」とか泣きそうな気持ちでどうにか生きてたころのほうが正しいのだ。

    だから誰かに自分のことをわかってほしいなんて思いたくない。自分と、そのささやかな手の届く範囲のことだけ考えたい。狭量と言われても、今はもうそれでいい。


    5/15(mon)

    対岸で手をふっているみたいだった。今までもそうだったのかもしれないけど、連絡手段をなくしたのかもしれない。

    現実を把握できないことが一番現実っぽい。別に把握しなくてよいと思ってたのだけど、把握できないと知るとなんだかいらいらする。


    5/14(sun)

    「こんなこと書いたってただのむずかしい人でしかない。でも書きたい。開き直れるほど子供でもないけど、やっぱりまだ大人ではないということを認めなければならない不快感を、堪えなくては。」

    あてつけがましいことばかり考える。やりづらい自分を他人のように見ては、折り合いをつけるために心の中で人にひどいことしてる。思想・信条の自由なんか嘘だよね。

    曇りガラスに映ったような濡れた月が見える。青白い煙を吐いては目が眩む。逃げても何かが追ってくる。月みたいに。


    5/7(sun)

    まだ真新しい、鈴のついたストラップをひろった。ちょうど鍵をなくして新しい鍵を作ったところだったので、それにつけてみた。少し揺れるたびにしゃんしゃんときれいな音がする。ポケットにただ入れるだけなら、歩調に合わせてリズムをきざむ。

    鈴って、こんな音がしたっけ。

    少しほほえましい気分になるが、どうせすぐに飽きて、音を立てずにこの鍵を扱う方法を見つけるのだと思った。ジーンズのコインポケットに入れれば歩いても音はしない。小指で鈴の表面に触れれば、キーシリンダーを回す時でさえ無音にできる。

    鈴の音は、聴きたいと思ったときにだけ聴くようにしよう。べつに、偶然鳴ったからって、咎めはしないけど、そうしよう。


    5/6(sat)

    暇だったから新しい悪口を考えていた。「お前の存在が人類の弱点だよ」とか。


    4/16(sun)

    「夢の中でしか予感できないようなもの」を形にする。すごいとかすごくないとかそういう話じゃない。

    マーラーの音楽を聴くとマーラーを知らなかった頃の人生がすべて失敗だったような気がしてならない。


    4/15(sat)

    今の自分を、昔の自分なら哀れんだ。そんな自分をまた哀れむ。今も昔も幸福だ。先があるなら人生は矛盾しない。


    4/11(tue)

    しょっちゅう10の桁を書きなおす生活、考えていないことの表れ。

    「単純に幸せなだけでは真に幸せではなく、その幸せが正しくあることとセットで本当に幸福なのだ」とか、正統派の批判を耳にして、ああ、こういうのが心に響いてしまうくらいわたしは弱っているんだと気づかされた。ダメだ、こんなの、わざわざ気づくようなことじゃない。高校の頃、あんなに毎日つらかったのに堪えられたのは、正しかったからだ。正しくないかもしれないと疑い続けることで誇り高くあろうとしていたからだ!世界だって本気で呪っていたわけじゃなかった。あれは受容の形の一つだった!

    全てが最悪だ。でもまだやれる。


    4/9(sun)

    住んでいるところや、かかわる人が変われば、少なからずなにかが変わる。それは、服装であったり、食べ物の好みであったり、考え方であったりする。変わることが表面的だと思っていたことを、それこそ表面的だと思うことさえも、そうかもしれない。

    循環論になることを知りながらも、でも、もう、そんなことどうでもいいやと思う。今、見限ったバンドのサイトを見たら、ボーカルの女の人が、濃い目の化粧をして、だいぶお洒落をして、眼鏡をはずして、入り込んだ顔で歌ってるライブフォトがあった。でも、それももう、どうでもいいやと思う。


    4/2(sun)勇気とか

    考え直す、いろいろなことを。それは「折り合いをつける」ことと動議であってはならない。生きづらさは他ならぬ自己の証明だと思う。


    3/31(fri)君を得たのは大きかったけど

    タバコの煙と吐く息の白いのとの区別がつかないくらいの視力。この1年で失ったものはあまりに多い。体力、誇り、あと、「この一年で…」なんてつい過去を振り返ってしまうことに恥の意識をすぐに感じることができるだけの繊細さとか。

    「上下意識を自然に受け容れられる人は小説家は諦めたほうがいい」って保坂さんが言ってて、心がざわざわした。小説家になりたいわけではないのに、われにかえったような気がした。

    誘蛾灯そのもののようなコンビニに引き寄せられて、紙パックの冷たい飲み物を買って、一気に飲み干した。今はこうすることで何かを変えられるような気が、まだ、する。まだ大丈夫だと思う。


    あの過去がまるでいずれたどり着く未来のような気がするのはなんなのか。懐古に似て、そうではないような。


    3/19(sun)

    友人(と呼んでよいものかどうか)の個展にいってきました。


    3/2(thu)今日が何曜日かもわからない

    決定打ではないぶん、余計に性質の悪い報せが入る。

    ショックを受けると頭の中が揺れる。揺れる気がするのではなく、体感として揺れる。今までも何度かこういうのを感じたことがあったのだけど、その時々に起こった出来事へのリアクションなのだとは考えたことがなかった。

    以前の自分は弱かったのか、鈍感だったのか、そんなことはどうでもいいけど、いま正直平然としていられない。飛行機に乗るか、飛行機になるかして、今すぐ離陸して、そのまま目的地を忘れてしまいたい。


    2/16(thu)

    意外に思われるかもしれないけど、この時代に生まれたことは後悔していない。フルヴェンの演奏がタダで聴けたり、70年代を美しいものとしてとらえられるのはこの時代に生まれたからだ。どれだけ2006年が惨憺たるものだとしても、それだけで生きていける。


    何らかの組織の中にいると、この集まりの中でしか通用しない冗談を言いながら、衝突しながら和解したりして、いったい、どういう意味があるんだろうと疑問に思ったりする。

    でもその気づきはだいたい「気の迷いだ」とやり過ごされてしまう。

    別にそれがさしてよくないことだとも思わない。ただしわたしはあらゆる組織の一つも自分の中で絶対化できたことはない。


    漢字にしても、カタカナにしても、ひらがなにしても、たばこという言葉の字面は好きだ。吸ってる人は好きじゃないけど。吸うのもあまり好きじゃない。いま好きな人と付き合ってからは、辛いときにしか吸わない。たばこの起源は呪術的なものだから、その「辛いとき」は、祈るようして吸った。

    わたしの小さな信仰。

    あのときは思えば、確かに気持ちは落ち着いた。でもパニックがおさまって冷静になったら、頭が客観的に悲しみを理解して、内実はもっとうろたえた。悲しさに支配されているときはいい。問題はそれが醒めたとき、シラフで世界を見れるかどうかだと思う。


    2/11(sat)

    やまない雨はないが、雨の中死んでゆく人もいる。寝起きの視線の先の曇り空は絶望を飛び越して、死因になりうる。


    2/5(sun)

    あのときのあなたへの気持ちはもう不可逆だけれど、それがもし戻せたとしたら・・・などと考えて嫌な気持ちになるのは子供のすることだと言えるけれど、でも結局その不快感を解消する術はまだ知らない。あることをするのを避けるのは、(まだ)逃げだと思うから、口をつぐんでしまうようなときも、何かを言おうとしている。


    2/4(sat)

    わかるはずがないことに誰かが何かを述べているとき、大事なのは、もちろんそれが正解なのかということではなくて、述べていることがどれだけもっともらしいかというところにある。そこでは、感性の質や、博識さがものを言うのだろう。わかるはずがないと知りながら述べるということは分析ではなく、すでに創作ですらある。

    それは、つまり、一つの嘘なのだろうか。

    わからない。しかし、述べられるその何かが存在するものであるかぎり、言説や表現の対象とされることは肯定なのだから、特殊な基準でいえばそれは善だろうと思う。存在は肯定の一様式だから(そして肯定は存在の一様式だから)、何にせよ、罪はない。


    1/27(sat)

    ものすごく素朴に定義すれば人間の想像力は無限だけど、実際はやっぱりあるものが基準になる。でも、キリストなんかはたぶんないものも対象にすることができた人で、その想像力を使って、実際に会ったことないし、会うこともできないし、想像すらもできない人でさえ想像して、救いを与えたのだと思う。少なくともそういう力があったと考えるか、そういう想像力によった救いという形式…というか、想像力の無限性を意識化できていたと考えないと今の世界宗教ぶりを説明できないような気がする。

    そこのところはわたしはだいぶ凡人で、ないものはないし、あるものはあると思う。ただ、ないものがあることであるものの外郭が定められる…規定されるとはいつも感じていて、やっぱり想像力の無限性というところに立脚してものを考えているんじゃないかと感じる。


    1/24(tue)

    東京にいたときつけてたeverydiaryが出てきた。


    2004/6/28 (Mon)

    あーあーそうか 利益とかもそれが得るもの(自分が所有するもの)であれば束縛されることになるのかー


    2004/6/29 (Tue)

    へこむ前から現実逃避


    2004/6/29 (Tue)

    つるっぱげの白人はみんな「フーコー」と呼ぶことにしている


    2004/7/2 (Fri)

    机に突っ伏して 人がくずおれる姿や ひしゃげるのを想像している 今よりもどこか動きのある画


    2004/7/2 (Fri)

    モザイクのような声 道と いつかと同じパターン 本当に、これが明日だった


    2004/7/2 (Fri)

    凡人の肯定、いっこ ずっともやもやしてるのとか、結構いい感じに正しいはずだよ それを信じたり信じなかったり。


    2004/7/8 (Thu)

    すてきな思いつきを否定しろ!


    2004/7/9 (Fri)

    世界中の砂粒の数が数えられないように、無限に届きそうなくらいどのようにでも考えられる、考えることができると思ったときの、ふつうのコミュニケーションの不思議、とか それを大袈裟なものと感じさせない、心というシステムとか その心を構成する言葉というプログラムとか 無限の砂粒も数えてしまいそうな、あるようなないような、よくわからない何かとか それを信じても信じなくても関係がないんだと許してくれる世界とか、その外側のこととか


    2004/7/10 (Sat)

    うずのように、中央に向かい回転しながら落ち込み、真実を得ようと思うなら、いずれ己の質量が邪魔になるだろう だからみんな無を目指した それ以外の誰彼に気付かれることなく、ひっそりと今も完了し続けている

    しかしながらそれは、螺旋を描く 嘘のように厳密に、しかも見方によっては美しく 救いもなく


    2004/7/10 (Sat)

    お前たちの足が囲むその虚ろな空間に、何がある

    何がある!


    2004/7/11 (Sun)

    だいたい希望とかどこで習ってきたの なんとなくあるような気がしてるだけでしょ どうしてそういうことに自分を委ねようとするの やることをただやろうと思わないの 何で被害者意識を持ってるの 絶望がどこからやってくるのか、どうしてわからないの


    2004/7/12 (Mon)

    希望とか絶望とかいう言葉には年齢制限があるように思われるので、いまのうちにガンガン使っていこうと思います キウ゛ォー! ゼツウ゛ォー!


    2004/7/13 (Tue)

    そういえば、痛みだけは衰えるということがないらしかった


    2004/7/22 (Thu)

    真面目なことをすればするほど自堕落になる

    真面目なバカに囲まれて 分類されることのくだらなさ、怖さ そういうことを、そういうことかなと考えた もっと素直になって、思いつきもしないことを考えたい

    バカはいつも悪くない それが一番タチが悪い


    2004/7/25 (Sun)

    画家がたとえば、静物を描き出す際に妨げとなるのは、対象との距離や光量の変化などではなく、まさに描き出そうとする画家自身の視界や筋肉だ、ということ それらがなければ絵画どころかその可能性自体ありえないが、絵画を「思い通りに描かせない」のもそれら画家自身なのだ、ということ

    それでも画家が絵を描くということはそのまま画家の偉大さになり得る 画家の描いた絵が画家の負うべき責任ならば、その存在くらいは手放しに認められてもいい どうせ好き嫌いはそれ以上のものを生まないのだから、後回しにできるのならなるだけ後回しにするべきだ


    2004/7/31 (Sat)

    小学生が写生したような、あたまの悪いきれいな青空

    何かに、羽根とそれを繋ぐ骨以外、全て食べられてしまった鳥の死骸

    「ねぇ、現実なんかこんなものだよ」

    「・・・そんなにドラマチックなのが好きか?

     よく見て考えろ、現実はこんなもんなんだよ」


    2004/7/31 (Sat)強さ

    言わなくたって伝わるよ きっと向こうも同じことを思ってる

    すれ違っても 忘れそうで消えそうでも 何もかもが同じはずさ 違うかもしれなくても

    きっと向こうも同じことを思ってる


    2004/8/3 (Tue)

    物語の冒頭のためには死にたくないなあ


    2004/8/8 (Sun)

    人の言葉には刺されてばっかりだと思う

    わたしの言葉が誰かを刺すことはあるんだろうか


    1/22(sun)心配ないんだから心配ないのさ

    ダライ・ラマでも「心配ないよ」と言いたい時は「Don't worry」と言う。ダライ・ラマがどれだけ偉い人なのかは知らないけど。


    ..No.19

    「ペットボトルいっぱいの精子」 嫌な言葉聞いたわ。

    ..No.79

    東京ドーム○個分 で換算するのもうやめない?

    そういえばそんなことも書いてたんですよね。

    ところでいままで人間が歴史のなかで消費してきた精子って、東京ドーム何個分なんですかね。統計学がすごく発展したらなんか割り出せそう。


    1/20(fri)

    過去をすべて失ってもまだ未来が残っている、という趣旨のことを言った人がいる。人のすべては、先にある。破滅がその先にないことを確信することができるようになれたら、その先の未来は果たしてどんなものだろう。


    1/18(wed)

    何が皮肉って、皮肉を解するだけの知能指数が。笑い方は誰にも習わなかった。でも作り笑いはどうだったか、わからない。


    鏡に自分の姿が映るかどうかを心配するかのような。


    1/17(tue)

    あんまりセンスのよくない出典だったと思うんだけど「負けてから生き方を変えるのは好きじゃない」とか誰かが書いてた。うまいことやれてる人は勝ってるうちに生き方を変えていくのかもしれない。そうでなくても、積極的で行動的な人はなんとなくうまくやれてるように見える。悩みを抱えていても、大体が表層的(もちろん本人は深刻にとらえている)だから、楽そうだなと思う。そういう人は、本人がどう言おうが、勝ってるんだと思う。負けを知る余地がないから。

    わたしは、勝ち負けの関係ないところにいたい。


    1/13(fri)

    許可をもらってタバコを喫った。後頭部から消えないめまいをタバコのめまいで打ち消した気分にして、でも泣いた。始発が走り出した。

    ふいにあの人がいなければ知らなかった小説家の小説の一節を思い出した。


    「僕は御巣鷹山の飛行機事故で死んだ大学の同級生のことを思い出した。

    そいつとは一、二年生のときの語学の授業で一緒で、教室の一番後ろの隅の席に並んで座って何度かしゃべって、「いい感じ」だと思ったけれど、卒業してからも当然一度も会わなかった。その彼の名前を十何年かして、事故の死亡者が新聞全面に二センチ画程度の顔写真つきでズラーッと並んでいる中で見つけたのだけれど、そのときの僕の気持ちは悲しいのでもなく淋しいのでもなかった。

    (中略)なんと言えばいいのか、卒業してから一度も会わなかったし、生きていてもたぶん一度も会わなかっただろうから、「もう会えない」ということではなくて、死んだのを知ったことで「会わない」ということがはっきりした形になった――というか、死んだのを知るまでは「会わない」という意識すら持たずに会っていなかっただけだったのが、そうではなくなった――というか、この時点で彼に関わる過去と未来という二つの時間がもう絶対に動かなくなった(そして僕もその一つの要素として確定された)(後略)」


    わたしも、いや、ぼくも時間の一部である以上は、あの人の死を証明しなくてはならない義務がある。それはとてもしんどいことだけれど、あの人のおかげでぼくは小径や木々の緑のよさを知ることができたのだった。それは、かけがえのないもので、だから、悪い冗談だと思いたくても、感謝したい。嘘っぽくなってしまうから、ケリをつけるなんてことはこの先いつまで経ってもできないのだろうけど。


    1/12(thu)

    本当の自分を探し続けて本当の自分を見失う

    とか

    本当の自分に出会いすぎてどれが本当の自分なのかわからない

    とか

    こうやっておちょくることが可能なことから、流布した言葉の安っぽさのなんと軽々しいことかが理解できる。書店で平積みになってる本なんか、気休めですらない。なぜならそれは真実ではないからだ。この世のどこかに自分のための救いがあると、そう考えるのは許すにしても、それがベストセラーの棚や女性誌が取り上げた記事の中にあるなどという考えそれ自体が胡乱だと気づかないその理性は相当に麻痺している。この世に自分のための救いなどないと思わなければ、真の意味での救いなど見つけられない。救いはみずから見出すものなのだ。


    1/10(tue)

    神の存在を本気で信じることは笑われて、大それた夢を信じることは爽やかな美徳とされる世の中なんか信用できるはずがない。


    1/9(mon)

    カフェインによる無理矢理な覚醒は、ベッドの中では嘘呼ばわりされる。

    無意味な夜、価値のない朝。

    目覚ましを子守唄代わりにはできない。


    フリッチャイがipodの中で新世界の4楽章を振ってくれる限り、それを聴いて目頭があつくなる限り、なんだってやり抜けそうだと思う。子供のころは、そういう自信は実際の行為や結果に反映される、予言のようなものだと思っていた。当然その考え方はドラマチックな運命論にすぎないから、甘い。違うのだ、この気持ちは、誓いなのだ。誓いは、約束し切れないものに対して約束するという行為は、難しくて気高い。

    それがある種の勘違いだというのは知っている。でも、誓うのだ。

    自分はなんて強くなれたんだろうと思う。わたしは彼に救われた。


    1/8(sun)

    駅近くの路地を歩きながら、何かを考えていたはずだけど忘れてしまった。コンビニでホワイトチョコレートを買って、食べながら歩く。

    落ち着かないときは、所持金も確認しないまま、お金を使う。今日2度目に訪れる本屋でティプトリーの「愛はさだめ、さだめは死」。無印で、べつに必要もない筆入れと、ペン型の消しゴムと、水のり、浅葱色とオレンジのカラーペン。また甘いものが欲しくなってチョコがけバナナチップと、ライチと蒟蒻のドリンク。あとで確実に金銭的な面で苦しい目にあうだろう。でも最近は、働いてもいいかなと思う。理由はないけど。


    12/18(sun)

    意味に近づきすぎると世界から遠ざかる気がする。


    12/15(thu)

    マーラーだけがわたしのことをわかってくれる。


    12/13(tue)

    宗教において、その宗教を信仰する人にはいくらでも定義があるのだろうけど、特別な信仰を持たない人々はどういう解釈がなされているのだろう。もし肯定的な定義が少しでもあるのなら、それももちろん、宗教的な救いであると思う。自己の及び届かぬところでそっとなされる存在証明というものがあると信じられたら、救済されたと感じる人は少なくないはずだ。

    神が、ある自己が世界の一部であることを純粋に教えてくれるだけの存在なら、それは、信じたい。わたしのこの信仰を許してくれるような神が、いたらいいのに。


    12/12(mon)

    これは誰の罪なんだろう。誰かが背負わないといけないものなんだろうか。そんなことはない。誰も悪くないのだから、きっと、そんなことはないはずだ。

    「これじゃあ、素朴すぎるかな」

    そうやって呟きたいのに、相手がいない。


    12/11(sun)

    生命力のある、頑丈そうな樹が、自殺志願者にとっては首吊りのための手段に見えるような。そういう悪夢は、いったい、誰のものなのか。樹か、自殺志願者か、それともそんなことを想像するわたしか。

    他愛もない。クッキーとコーヒーで夜をねばる。


    12/9(fri)

    力んで弦をはじいてしまったときの、ガキッという音が耳から離れない。

    捨て犬をひろった。コンビニのゴミ箱の上に放置されてたスヌーピー。パイロットみたいな帽子被って、墜落でもしてきたのだろうか。うちの部屋にはスヌーピーは既に1匹いるから、仲良くしてくれたらいいな。


    12/4(sun)

    今更、自分は小さいころから人を信用していなかった、という事実に思い当たった。駅のホームで無邪気に走り回る女の子を見ながら不意に思い出したのだけど、そういうとき自分なら、走り回りながら、横にいる見ず知らずの大人が、自分をホームから突き飛ばすかもしれないということを常に頭の端で考えていた。道を歩いてても、人とすれ違うときは、そのすれ違いざまに包丁か何かでざっくりとやられるかもしれないという考えが頭を離れなかった。それは恐怖ではなくて、純粋に「そういうこともありうる」ということをリアリティをもって感じていたのだった。神経症的だなあと思わなくもないけど、子供心の罪のなさもあって二重三重に歪んでいる。

    でも今にしてみれば、そのくらいの考え方をしてても異常だというわけではぜんぜんないと思う。子供を蹴っ飛ばしたり殺したいと思ってそうな顔の人、街中に溢れかえってるし。鏡の向こうにも、たまにいるしね。絶対実行はしないにしても。


    12/3(sat)

    空をながめてみてもなんにもならないけど、空を味方だと思っている人は少なくないと思う。

    冬の衛生的な空気のなか、並木道を下り、かたい地面の反作用を感じる。

    なにも解決しない。しかしなにも間違ってなどいない。本音が具体化していきそうだ。


    うそだと信じたいという言い方にはなにか引っかかりを感じる。なんだろう。

    自転車に乗らない生活をしてしばらくになる。秋田にいたころは、冬場に自転車に乗るとあっという間に体の温度が奪われて、小さくておおげさな死をいつも実感したものだったけど、それが嫌いだとは思っていなかったはずだ。雪でびしょびしょになった靴下にも、飼い猫は顔をすりつけていたのを、今、思い出した。なぜ?どうしたのかな、寂しいのかな。洗濯物がベランダでゆれている。


    11/23(wed)

    悲しい報せをきいたときは、今こうしている間にも世界中で同じ類のやり取りが行われているのだと思い、その逆のときは、その逆のことを思う、のかもしれない。世界は慰めではなくて、慰めというのは、世界の仕打ちに対して欲するものだ。でも、ささやかに救われたと思う瞬間は確かにあって、それもこれも世界の中での話なのかと思う。抜け道をどこかにみつけたい。


    いつかの理想に近づけた、と思ったら、それがいつの理想だったのか忘れてしまった。若さなんかくだらないものだ、と今言ってしまうのは、若い時間しか過ごしたことがないというのにあまりにも浅薄すぎる。若さをよいものだと肯定するわけではぜんぜんないのだけれど。


    11/21(mon) I hate you,baby.

    今のくるりは嫌いだ。というか彼らが特別なバンドではなくなってしまった。ベイビーアイラブユーとか言わないでほしい。


    11/19(sun)

    手に入れてみてわかった。持たないことをわたしは捨てたんだ。


    10/29(sat)

    失敗したかなと思っても、「失敗してない」と心の中で呟いてみて、違和感がなければ失敗してないと言ってもいい。

    ということを失敗したときに考え付くと負け惜しみになりかねないので、特別失敗してない今書いてみる。

    という、失敗。


    内容は忘れたけど、非常に正しいことがトイレの個室内の壁に書いてあった。なんてシニカルなんだろうと思った。なぜかというと、正論でも、トイレに書けば「便所の落書き」になるからだ。意図して書いたのならなかなかすごい。


    10/27(thu)

    すり減ったり、与えたり、ぐったり。でも幸せ。そんなの正直、気が違ってると思う。でも、幸福感ですらニュートラルから考えたら異常でしかない。こじつけとか、言い訳とか、はったりとかは似て非なるものでありながらもやっぱり似てて、区別するのがばからしいと思ったらそれまでなのだ。

    もうあんまり厳密には考えないんだと思う。それはもちろん喪失感だけれど、その分はまるまるあなたの場所ということなのだ。何も変わりはしない。


    10/18(tue)

    あなたにとって大切なものはなんですか?とかどっかのバナー広告に書かれてたので、少し考えて、「大切なものを必要に応じて切り捨てる能力」と、心の中で答えた。自分を捨てながら生きている。持ちすぎてると思う。何が、ということはないのだけど。


    10/9(sun)

    悪循環は放っておいてもできあがる。それを断ち切ろうとすることは自然な行為かもしれないが、そうすることによって悪循環が助長される可能性に気づくのはむずかしい。空回りするだけならまだいいが、物事の歯車は少しずつ、しかし確実に回ってゆくものだ。


    日曜日の過ごし方を21年目にしてはじめて見つけた。あなたさえそばにいてくれたら、あのときや、あのときの日曜、わたしは人類の破滅を切望したりせずに済んだのだろう。来週の予定は空いてますか?


    9/28(wed)

    嘘はつけないから言うけど、役に立たない涙は流したことがない。

    シチューを作った。あたたまる。


    9/23(fri)

    急行が通り過ぎようとするたび、そこに飛び込む自分を想像しては「アリだな」と思う。以前に比べて穏やかになったはずの今でもそういうとこは変わらないから、やっぱり自分は向こう側の人種なんだと思う。と、こっち側にいるつもりで言ってみる。

    「今の生活は嫌いじゃない」。ずっとそういい続けてきて、ことごとく信じ切れなかった気がする。もうそんなこと、どうでもいいんだけど。


    9/22(thu)

    10代を微笑ましく思うことは20代の余裕ではなくて、20代の意地なのだと思う。意地とか、結局10代の頃と進歩してない。


    距離感が狂ってて、車が正面衝突するかと思った。その時は甘すぎるチョコレートのアイスを食べてたせいで舌の感覚がなくて、鼻づまりで匂いもわからなくて、音は普段からあんまり注意して聞かないし、秋のはじまりのせいで気温もあいまいだったから、ほとんど五感が働いてなかった。冗談みたいだった。轢かれて死んでも気づかなかったかもね。すべてが冗談みたいに。


    9/19(sun)

    悪意のないことが悪意のあるように取られることが心外だとか、誤解だというのは、相手のことを第一に考えるのなら言い訳でしかないのだとはじめて知った。状況に、ドラマやバラエティのせいで流布してしまったありがちなセリフを吐かされて嫌な気持ちになって、拗ねたら、あなたはわたしをかわいいと言って笑った。

    「浮気者は嫌い」

    冗談でもそう言われたら胸が痛むんだ。だから、許してほしい。ただ友達が増えただけなのさ。


    9/6(tue)

    何かをわかろうと毎日を過ごしながら、見ているのは全て何かをわかろうとしてわからない人たちの生活という名の散文。わかるはずがないよね。真実や答えなんかもう既に算出されているんじゃないか、つまりそんなものはないんじゃないかという、何度も繰り返した問いかけがリフレインする。それがなんだか逃げっぽいという理由でなんとなく真実を探そうとしている。生きている。逆(?)に逃げっぽくないと感じられさえすれば、世界とさよならするのは悪いことではないとはなかば本気で思う。0.2秒後に笑い飛ばすとしても、そういう真実をある種の真剣さで信じる人のことを悪く言ったりはしない。

    幸せだからってこういうことを書けないわけじゃない。違う。幸せだからこういうことが書ける?世界とあなたに有史以来最上の祝福を。


    9/4(sun)

    こちらの冗談で無邪気に笑われると、ちょっと嬉しすぎてどうしようかと思う。え?いいんですか?って尋ねてしまう。誰に尋ねてるのかは知らないけど。

    急に降り出した雨を「すぐにやむよ」って傘を買わずに歩いてくあなたは絶対強い。わたしなんかにわか雨に降られただけで本気で泣きなくなるのに。

    「まーた帰国子女みたいなこと言ってー」

    「いやいや、帰国子女ですから」

    そうこう言ってたらほんとに雨、上がるし。わ、ほんまにやんだ、って思ってかなり感動した、って言っても、そのすごさは伝わらないのかもしれない。


    8/31(wed)

    死にたいときは、そう思うことで、他の余計なことを考えずに済むから、ある意味精神衛生は保たれていると思う。幸せなときはいろんなどうでもいいことを、現実的なことを考えなければいけなくて、時々気が狂いそうになる。でも、この今の生活に発狂しかける自分の感覚に、いつも少し安心する。向こう側の人にはならない。どうしてもなりたくない。どうしてもわからない。


    ものの最低限の形しかわからないような視力でも、田圃の水面に波紋が渡れば、そこにアメンボが浮いていることは容易く予想できる。風は涼しいけど、まだ涼しいというだけで、やっぱり日中はひどく暑くなる感じを孕んでいて、日差しが眩しくて、頭が痛くて、眠かった。

    寝起きのときはアタマに血の変わりに殺意が満ちている。そして視線から殺気がもれていく気がする。最近はでも、そういう抜き身の刀のような、表面的な殺気は薄れるべきで、任意のときに発せられるべきなんじゃないかと思う。喩え続ければ、刀は抜かれてしまったら勝負をつけなければいけないわけで、わたしはそういう下らないけじめを回避しようと殺気を求めたのだった。冗談を言うわけではないけど、わたしは穏健なのだ。まともな人でいたいだけなのだ。


    8/27(sat)

    お酒を飲んでいると、時々、自分がすごくさめた顔をしているのに気づく。お酒は変な風に感覚を鋭敏にしたりするから、たぶん感受性さんが勘違いしているだけなんだと思うけど、そうじゃないとしたら、と考えたほうがなぜだか真実にふれているような気がする。そんな、自分が信じてはじめて存在する真実なんかないんだと思うけど、今更そういうことをいちいち考えるのはもう、めんどくさいから、囲まれたテーブルにゴミのように吐き捨てられる価値のない冗談をわたしも考える。大人になるということはこういうことだったんだ。

    はい、大嘘です。そんなことを本気で考えるようになったら終わりだなって話でした。くだらない人間はみんな死ねばいいよ。


    8/25(thu)

    彼女さんとつきあって**ヶ月経った。

    彼女さんとつきあって**年経った。

    彼女さんとつきあって1ヶ月経った。書きたいことはいくらでもあるけど、何より、上のテンプレートを死ぬまで使い続けられたらいいなあと思う。


    8/24(wed)

    勝ちとも負けともつかない、ニュートラルな気持ちでカレーパンをかじると、感謝とも謝罪ともつかない言葉が漏れる。ありがとう、というその音の流れはでも、まだずいぶん救いのある響きがして、それがおそらく幸せの根っこなのだろうという気がした。


    8/21(sun)

    部屋のドアの前で蝉が死にかけていた。スニーカーの爪先で起き上がらせてやると、カサカサと、軽い音がした。

    自分が生きものだということに強いリアリティを一旦持ってしまうと、まるでプラスチックの模型のような彼が自分の末路にしか見えなくなってしまう。愛の言葉を囁きながら、永遠のような時間をただ過ぎ去っては足跡すら残さない。虚しさに嘘をつこうしているみたいな声がここ数日ですっかり弱まった。うんざりするほど情緒的な比喩ばかりが浮かぶ。そういう季節が来てしまうらしい。嫌だなあ。ヒトも気温の変化とかで死ねたらいいのに。


    8/19(fri)

    コーヒーの香りで眠くなる。甘ったるいクッキーを(珍しく)おいしそうに齧る彼女はおもちゃみたいで可愛かった。ガラス越しの風景は時間が止まってるみたい。スタバの話。


    さみしくても、手を離すということは、次に会う約束ができるということなので、そんなにさみしくない。別れ際が一番優しい顔してると思う。


    8/16(tue)

    嘘をつくのがイヤだ、っていうのが、本当のことだけを言いたい、っていうのに変わった。結果的に指すことは同じなので、つまりこれは心境の変化とでも言うべきなのだろうか。心境の変化も「世界」には含まれるのだろうか。わからない。わからないことをあなたに謝りたくなった。その時々できる限り誠実に生きることぐらいしかわたしにはできない。

    ごめんなさい、でもありがとう、でもごめんなさい。


    8/15(mon)

    汗と、血の匂い、髪の香り。幸せは途切れながらも続くのです、と、スピッツが絶望的なことを歌う。

    感触が指先や薄い胸板に残っている。ずっと眠っていられたらいつまでもこの感じを失わずにいられるのに、明日のあなたにも会いたい。すごく頭が悪い思いつきだと思う。でもこれは、なんて心地のよい自嘲なのだろう。


    8/12(fri)

    抽象的なことがよくわからないときは身体を使って考える。

    ふと、この身体は愛された身体なのだと気付くと、それはつまりこの手が触れたものや、唇の感触が、そのまま愛するという動詞になってフィードバックしていくということなんだと思って、その連関の途方もない堅固さにくらっときた。こんな得体の知れない力を信じていいのだろうか、と疑問に思うのは倫理観なのだろうか、それとも臆病風に吹かれているだけなのだろうか、ただとにかくこれは、どちらにしろ愛なのだ。


    8/4(thu)

    悲しい事故に遭えばそれを冗談にできなくなる。幸せになれば痛いのが抜けてイタくなる。そういう手遅れを避けながら生きることだけが正しいと、今だからこそ言わなくてはいけない。失敗が怖くないなんて異常だと思う。


    8/2(tue)

    憂鬱を嫌いになれたら大人なんだと思う。「嫌い」の意味が伝わりづらいと思うけど。


    8/1(mon)

    京阪電車に乗って世界の果てまで行きたい。


    7/31(sun)

    暗くしようとは思わないけど、明るくしようとも思わない。明日だってきっと地下鉄に乗るときは無表情だ。それでいいんだと思う子供っぽさに小さくほくそ笑む。


    7/29(fri)

    忘れてしまったことがたくさんある。忘れたかったことはそのまま反抗する力だった。今はというと、弱体化したわけじゃなく、力がいらなくなっただけのことだ。


    7/23(sat)

    きのう書いたことに少しつなげて書くと、年をとると、諦めとは違った風に、つまりいいほうに力を抜くことができるようになるみたいだ。その例になるかわからないけど、前に書いたように、わたしは低音担当の弦楽器(マンドリン系の楽器で、マンドローネと言います)をやっているのだけど、ベースみたいなものだから弦がとても太くて、ダウン一発をピッキングするだけでもかなりしんどい。でもそこで必要なのは力ではなくてむしろ脱力で、力いっぱいピッキングしたときよりも力を抜いて、必要最低限の動きでピッキングしたときのほうが音が大きいというか、「通る」音がする。それはもう経験を積んでいかないとわからないことで、自分がやらなければできないことなのだけど、それと同時に、任意の瞬間に自分でどうにかできるわけではない。ただそういう瞬間が来るのを待つしかない。その瞬間までの膨大な時間が無駄ではないとか肯定するわけではない(無駄はやっぱり無駄でしかない)けど、心地よくも、不快でもない時間の過ごし方ができるのは少なくとも価値のあることで、ささやかな救いではあると思う。思春期にもご褒美があったんだなあとでも思えば綺麗な話にもなる。


    7/22(fri)

    普通の人になりたい。悪い意味でのそれにはなりたくないけど、でもどうしたってそれはレッテルだから、貼られるというか、いつも貼られざるを得ない。その割に特定の貼る人というのが存在しないのは、幽霊みたいで気持ち悪いと思う。幻想に過ぎないということなのかもしれないけど、わたしは普通の人だからそれは断言できない。


    できないことがあるのは落ち着かない。できるけどしないというのが精神的に一番いい。今までそう思ってきたのだけど、でもそれはつまり余裕が好きなんだという風に解釈したらととたんに嫌な気持ちになった。素朴にそんなの趣味が悪いと思ったのもそうだけど、見方次第でがらっと認識が変わることに気付けないのは、なんだか沽券にかかわるような気がして、いつも割とびくびくするくらいに注意している。

    人が聞いたら変なポリシーだと思うだろうけど、それはしかも抑圧ではなく義務だという考え方なので、なおさら変だ。自分でもそう思う。ただこれは選ぶ選ばないの話ではなくて、最近はなんだかそういう自分の意志が介在しないものの存在が近しく感じる。10代の頃は月並みにそういうのに反抗してた気がするけど、やっと自分に慣れてきたのだと思う。この考えだっていずれ変わるのだろうけど、そういうことにも昔ほど執着しない。

    昔話をする癖も最近出てきた。これは端的によくないので、やめたい。


    7/21(thu)

    裏の裏もなにも、表から見て裏があることが問題なのであって、そういうことに気付かない感性のことを善良とか言うんだろうなあ。


    7/18(mon)

    光が物質であることに絶望するような人種もいるんだろうな。その気持ちはわからないでもないけど、わかってくれと直に言われたらたぶん戸惑うと思う。

    でも、あるいはそんなこと言わないかもしれない。得てして本当は社会性なんてどうでもいいと思っている人のほうが社会性を持っている(これは個人的な感覚の話ではない)から、光の神聖さを信じている架空の彼にそのことを訊いたなら、そんなことにかまけているほど暇ではないと、きっと言うはずだ。字面からしてそのときの彼はこの上なく頭が悪いんだろうけど、高尚とはそういうことなのではなかったか。


    7/9(sat)

    自己を運びて万法を修証するを迷となす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。(道元禅師)

    お坊さんは何かと波長の合うことを言ってくれる。これは現代的な文字通りに読んでいくと、徹底的な近代西洋の個人主義の否定だけど、決して人間存在の否定ではないのがいい。存在自体は否定せず、万法、つまりたぶんこれは哲学の文脈における「世界」のことだろうけど、そういう存在の中の一存在であるという示唆、というか再認識を与えてくれる。「人間なんかほんのちっぽけな存在でしかない」というのは否定文だから、許容という観念に程遠くなるが、世界というメタレベルを意識的に設定することで存在はその小ささを肯定される。宗教にしろ哲学にしろ、自己が独立した存在として世界を規定するのではなくて、自己を含めた世界を考え続けるのが目的でなくてはならない。その行為は創造というよりかは、途方もなく壮大な想起に近いんじゃないだろうか。動物は世界に気付かないことで世界たりうるが、人間は普段世界を忘れているうえに、気付いたときには世界になる手段を失っている。そこから粉々に砕け散った無量の破片を拾い集めるような生がはじまる。


    レポートの途中だというのになぜかスタイルシートを増やしました。思いつきなのでそんなおもしろくはないです。スタイルシートが変更できる環境にある方はページ最下部のStyleSelectからどうぞ。



    7/8(fri)夏の影はそこここに

    世の中には本当に「なんかおもしろいことないかなあ」とつまらなそうにつぶやく人がいるのでびっくりする。最近はべつにおもしろくなくてもいいかもしれないと、やや本気で思っているのだけど、それを人に言ってきょとんとされるのはだいぶ嫌だ。

    「生きづらい世の中だ」と言ってみたら、何か変わるんだろうか?似たようなことをなんども書くけれど、共感を求めているわけではないということを、人にわかってほしいという矛盾を抱えているのだ。「誰にもわかってもらえない」なんて、言ってどうなるんだろう。どうしようもないというか、それは、しょうもない。


    7/7(thu)

    他人の目を飛び出る直前くらいまでつまむ夢を見た。ほんとうに飛び出るまでつまんだわけではないので、指を開くと目は元あった場所に戻った。その前後のことは覚えていない。ただ単に目をつまんでみたかっただけかもしれない。


    7/5(tue)

    軽すぎるマイセン、距離、そして、間。

    泣こうと思えばいつでも泣けた。でもそれがおかしくって笑っていたわけではない。


    7/4(mon)7月4日に生まれて

    2002年6月11日(火)

    前にラジオで、28歳の誕生日を迎えた歌手が、「27っていうのが嫌で。なんかすっきりしなくて。28という数に早くなりたいと思っていた」と話していた。番組の司会者も、「そうですね。そうかもしれない」と相槌をうっていた。その会話を聞きながら自分も、なんとなく、そうかもしれない、と思った。

    21歳になった。20という数は、はしっこが0なので、始まりなのか終わりなのかわからないところがいいと思っていた。1の次は2に決まっているので、あとは順々に。


    上のはいまはもうないサイトの文章です。はじめて読んだときから、なんとなくこの文章が好きだった。名前も知らないのだけど、この文章を書いた人は、いまも順々に歳をとっているんだろうか。

    21歳になった。21は23よりは小さいけど、19よりはやっぱり大きい数字だ。数字はしょせん数字だと思うけど、それさえも数字がなければ成り立たない論法なんだから、勝ててはいない。じゃあ負けるってどういうことなんだろうとも思うけど、かといって、表現の問題じゃないか、というと、またなんだか違う気がする。よくわからない。わかる必要もないのかもしれないけど。


    7/3(sun)安楽死

    自分をうまく使えずに死んでゆくような、そんな緩やかな死も自殺じゃないだろうか。


    7/2(sat)

    楽しかった飲み会の帰りの電車の中で、もう本当に人間なんか死にたくなるくらいアホらしいものだなあと思ってたら、髭面の、いい年したおじさんが、汚れに汚れてページの色が変わった新潮文庫のドストエフスキーを読んでいた。

    ものすごく、勇気が出た。救われた、と勘違いしてしまいそうだった。


    7/1(fri)

    喪失感はなにも失ったことのない人が感じるものだから、美しくてもそれは宝石のようなものでしかない。宝石ならまだいいほうかもしれない。あなたやわたしのそれは、まるでガラス玉みたいだ。


    バカな子のフリをするのを忘れた。それはつまり、本当にバカなことをした、ということだった。


    6/24(sat)

    物理的な世界が時間という次元と不可分なものだと言うなら、時間を「使っている」と感じるということは、自分が世界内存在であることに確証を得られているということだろうけど、そういう論拠にすら感情論は入り込むことがありうる。怖い。


    宿命は客観的と感じざるを得ない主観だから、その道筋から外れたときには小休止をはさまなければならない、と感じるのは気のせいだが、そこまで考慮すると恣意的な行動をするときと何が違うのかという話になる。わかりやすいのは倫理への逃亡だが、迷いという下位概念から基本的に上位概念である倫理への移動など、常識的に考えてありえないので、それは現実逃避でしかないのかもしれない。


    6/23(thu)

    おくすりを飲まないとやっていけない、という境遇の人の文章をよく読んでいることに気付いた。どの人も賢い人だと思うんだけど、定期的に精神科に通って、精神科医とあのバカバカしい内容のない会話をしてるのかと考えると、その時の気持ちはどんなものなんだろう。ふいにそういうことを思いついた。精神科医だって普通の人なんだから、だいたいはバカだ。ではそんなバカにおくすりを処方してもらう、錠剤が手放せないタイプの人たちはもっとバカなのかというと、それはなんだか、論理的に見えるけどどこかに怠慢があるような論法な気がしてならない。単純化とでも言えばいいのか。


    6/21(tue)スカートの砂

    「夜泣いたりすることある?」と訊かれた。この人も泣いたりすることがあるんだ、と思った。わたしは19歳のときどうだったかな、と思い返すと、泣いたりすることこそなかったけど、比喩とかじゃなく物理的に胸がずうっと苦しい日々だった。今も少しそうだ。「そういうこと、あたしと**さんには話してもいいよ」と言われたけど、さすがにそれはありえない話だから冗談で切り抜けた。打ち明け話は、すると一瞬楽になるけど、あとあとそれが気休めでしかなかったということにまざまざと気付かされるから、すごく嫌いだ。そんな無自覚なことは絶対にしたくない。

    「人に期待してない」と言った。本当のところは、ただそのことを理解してくれるのを期待しているんだけど、そんな厳密な話ができる人なんかいるんだろうか。


    6/20(mon)

    アーケードの隙間から少しだけ空を見上げた。全体的に晴れているように思えたけど、ちょうどくもりガラスを通したように月が霞んでいた。貴金属のようになまめかしく輝いて、いやに人間的だと思いながらも、きれいだった。月が建物の影に隠れてからは、そのことは忘れたように目的地へ歩いた。


    6/18(sat)花狩り

    強がりの言い訳が本音だったことに気づくのは月並みなことで、月並みなことに気づくのは卑俗なことで、卑俗なこと、と言ってみることは強がりだ。成長していない。でも、循環しているわけでもない気がする。


    6/17(fri)

    自分を必死で「向こう側」に投げているような感覚。あえて俗化をすることで全体としての神聖化を望むような。その善悪の判断はともかく、しかしこの、言いようのない「強いられている」という実感はなんだろう。ずいぶんすっきりしない。視覚化さえできそうなこのわけのわからないくたびれもうけが何かの本質だとして、それは自分のものなのか、世界のものなのか。どっちなんだ。


    6/16(thu)天気予報で「隕石が降ります」とか言ってくれればいいのに

    水がなければ、花は生きてゆけない。激しく降り注ぐ雨に花が負けているように見えても、それが見かけ通りのことなのかどうかは、その花にしかわからない。


    楽しかった記憶はすべて死ぬ理由になる。楽しければ楽しいほど死にたくなる。この充足した生活は地獄でしかない。正しいだなんて少しも思えない。


    6/15(wed)そっと運命に出会い 運命に笑う

    人の評価に対する評価をする人は、結局誰に何を言いたいんだろう。よくそんな疲れることするなあと思う。


    言葉のキャッチボール?その比喩はわかりづらい。ボールを投げるような気力もない顔をしながらする話を、今までいくつも聞いてきた。そういう時わたしはなにをしていたかというと、ひとり嬉々とした顔で飽きるまでひたすらボールを壁に投げつけてた。跳ね返ってきたボールをおぼつかない手つきで受け止めては投げ、受け止めては投げ。自問自答がコミュニケーションに応用できることには、少し、不思議な気分になる。笑ってごまかせない会話などないという重要な示唆かもしれないが。


    6/14(tue)

    思い出を思い出のままにすると単なる妄想になる。自らの美しさを求める現在の欲求の充足としての過去はもはや過去ではなく、フィクションだとすら言える。その位の思索の道筋がなければ人生はかけがえがないものなどでは決してない。書き換えができるからだ、むなしさという大事な感情と引き換えに。


    劣等感はどこまでが倫理たり得るのだろう。コンプレックスは少なくとも向上心だとは言えなくはないと思うけど。


    通学の電車から眺める景色や、それが自分の内面へと反響する仕方さえ下世話になった。きれいなものに惹かれていた。そうでないものもわからなくてはいけないと思っていた。でもそうではなかったのだ。


    6/9(thu)胸の傷から 夕陽が溢れて

    知り合いの人を何度か無視してたらしかった。故意ではない、と思う。


    一人で生きていく力がほしいと願うことは素朴すぎる優しい夢だろうか。そんなことを望むこと自体が青いのだろうか。わたしが望んでいるのはいわゆる不自由だろうが、それについている値札は高額すぎて手が届かない。しかし、だとすればそれはみんなが欲しがるものなのだろうか。違うと思うのだが。


    継続がおそらくは破滅の元ネタなんだと思う。何千年も前の、破滅を扱った神話はつまり、古代人の病んだ退屈のあらわれ、つまりは絶望だったんじゃないだろうか。


    6/5(sun)f.t.p.

    人がまわりにたくさんいる。去年はひたすら、一人っきりで過ごしたけど、周囲への激しい殺意とは裏腹に、当時を一言で表現するなら「穏やか」ということではなかったか。それが何かのごまかしだったとしても、今は今で、何かが違うと思う。本音を言えばふつうの穏やかさが欲しいけど、たぶんそれは手にはいらない。


    古傷のようだ。痛みはしないが、今までも、そしてこれからも消えないのだろうということだけが如実に感じられる。執着しても仕方のないところまで同じだ。気にしなければいいのに、そんな簡単なことさえ困難なのは、信じがたいが自分のせいでしかない。


    初夏だった。山の向こうへ沈んでいく薄紫の夕陽と、湿気と混ざった木々のむせかえるような匂いが結びついて、少し気が遠くなりそうになった。確か歩きながらしんどいことを考えていた気がするんだけど、思い出せない。見当はつくけど、忘れるぐらいだから大事なことではないのかもしれない。個人的な悩みなんか考えるだけばかばかしいから、そういう逃げみたいな論証でも別にいいやと思う。逃げなくても、すっきりしないのははじめからわかっているのだし。


    いくつかの言葉からか、それともあたりをつけられていたのか、強がりなのをはじめて人に見抜かれた。適当に人生やり過ごしてる人として4年間やっていこうと思ってたのに、なんか台無しだと思う。それとも台無しなのはこれまでの人生のほうだというメタファーか何かかと思うけど、それでも経験則に従って考える(この期に及んでも!)なら、期待するのはヤバいから、しない。



    5/16(mon)あなたがいるかぎり

    わかっているいろんなことを書くのはめんどうくさい。でも今日は書く。


    浮き沈みがない人などいないことはわかっている、と、しても、それをわざわざ言葉にしているようではまだ子供なんだと思う。

    考えているつもりでいろいろな逃げがある。数十文字前にもある。

    気づかないものにまで考慮に入れるときりがないけど、だからといって気づかなくてもいいわけではない。でもそれはいちいち書くべきことかというと、いまいちふらふらしてしまう。

    こんなこと、そんなこと、たぶん3メートルくらい離れて見ればとるにたらない小さなことなのだろうけど、見逃したら見逃したでなんだかいやな気持ちになる。それが素直な気持ちだと思うと、自分の善良さに呆れ果ててしまう。やっぱりきりがない。

    ただ、生きているうちは、ずっと生き続けているのだから、きりがないとかどうしようもないとか言ってても意味がない。とりあえず卑屈にならないくらいしかすることもないから、そうしている。


    5/12(thu) 部屋を飾ろう

    天才には勝てない、というのは目くらましで、最初から勝てる相手勝てない相手というのは厳然としてある区切りだから、勝ったとか言って、所詮は身の回りの宝石の屑のようなできそこないに唾を吐き捨てて快感を得ているだけだと思う。だから勝ち負けからはすごく、離れたい。経験不足や才能のなさは集中力でだいたい切り抜けられる。わたしはむしろこの「切り抜ける」という表現の正しさに堅固な自信さえ持てればと思う。


    5/6(fri) 僕は音楽に愛されてる

    これはこれでなんだか違う、というような気がする。でも、自分を基準にして考えるといつも間違うことがこわくなるからあまり考えない。嘘にはだいぶ自覚的に文章を書いてきたけど、そういう嘘ならたまにつく。甘いと思う。ただ、突き詰めすぎると何も感じない境地というか、そういう似非の悟りを開きそうになるから、いまのところは、とか言って大体の場合ほったらかしにしている。


    ネットに繋いでたりメールを送受信してる携帯をスピーカーに近づけると、怪奇現象みたいにザザーというノイズが鳴る。どうリアクションをしていいものか迷う。とりあえずからだにはよくなさそうだと思う。


    「嫌いではないけど好きでもない。」

    他人だということがそんなに怖いのか。都合のいい関係でいたい?相手の好意のリズムと自分の好意のリズムがずれた瞬間のことを考えてみればいい。それらのタイミングはまったく偶然にすぎないのだから、それだけでもう何もかもが不可能に感じるだろう。あるいは収束することもまた偶然にある。どちらにしろそれは見えない誰かの魔法だとしか言えない。

    関係を一本の線だと考えるとすぐダメになる。取り巻く環境だと思えば、ある程度のことは納得がいく。そんなふうに自分を中心に考えるから、線の視点ができたのかもしれないけど、そのくらいの不毛さがなくてはたいていの人はそもそも人間関係なんか望みもしないはずだ。信じがたいことに一人でいることのほうがめんどくさいと感じる人のほうがこの世界では多数派なのだ。


    いまいち、暗いほうに触れても明るいほうに触れても、それが異常なら狂っているんだと思う。中間はある。しかしベクトルがちがう。道はあるのにこれでもかというほど閉ざされている。


    少し遠くのサティまで出かけて、食料品とか台所用品を買う。ひとり暮らしをしてみて感じたことだけど、台所仕事というのはたぶんすごく奥深い。料理のことはいわずもがな、京都に来て一ヶ月、折に触れては必要な食器なんかを買っているのに、まだ足りないものがたくさんある。そういえば実家にしても、具体的に何かが足りないということはなかったけど、わたしが住んでいた時点で完成されていたのかというと、そうでもなかったのかもしれない。


    レポート書くのがめんどうくさいからフリッチャイのモルダウのリハーサルと演奏会本編を通して観る。この人はまるで音を直接掴んでるみたい。


    4/30(sat)

    こないだの事故で亡くなった知らない人のために、青空の下で知らない人たちと祈った。神はいないと信じているから、その儀式すら動機付けの一つだとしか思えないのが残念だけど、それ以上に知らない人が死んだのも残念ではあるから祈るのだと、言い聞かせた。しかし無私にならなければ祈りなど成立しない。声をひそめて、七尾旅人の真似で聖歌を歌った。


    それにしても、「私は神を信じる」というとき、その主体というのは文の上では「私」だけど、神があまりにも包括的なものであるがゆえに、本当の主体は神なんじゃないかという気がして気持ち悪い。同様に、「私は神を信じない」というときも、あくまで目的語として下位の概念、「私」が扱えるものとして扱われているのに、扱い切れていないような気がするし、よしんば扱い切れていたとしても、単なる自立した否定文であるはずなのに、神以外のなにかを代替に立てた肯定文を新しく用意しなければいけないような、胸がざわざわするというか、すわりの悪い気分になるのがまた気持ち悪い。


    4/29(fri)

    僕等はいつもポゴステップを踏んで(何も無いのに)

    大空高く飛べる日を待っている(何も無いのに)


    スパルタローカルズ「POGO」


    上にも下にもなにもない世界に生きている人がいて、それはつまりどこにも目をそらせないということかと思う。


    ふと我に返るとヤバいからそれを忘れることに我を忘れている。たとえばもし世間の人たちがみんなそうだったら、わたしはかれらと距離が近くなるのか遠くなるのか。あるいは隣接する木々みたいに、距離の概念すら意味がないものなのか。

    どうでもいいけど、木はいいと思う。すごく生き生きとしているのに、なんであんなにも無生物みたいに見えるんだろう。不思議な気持ちになる。


    4/26(tue) "Where're you from?" "Nowhere."

    気難しい奴を「性格が悪い」といって貶せないのは自己否定につながるからだが、逆に言えば、それさえ気にしないなら鼻で笑い飛ばせる。いいところがあろうが、その時々の気分次第では死ねばいいとすら思う。


    */*(***)

    紙クズか、テスト前の一夜漬けかのような防御策(柵?)を張り巡らして、こんな自己でも守らなければならない、たとえ間違ってると気づいたとしても、と祈るように震えている。神様わたしは誰も嫌いではありませんが、めんどうくさいことだけは反吐が出るほど嫌いです。あんた、この世界の責任者なんだろう、出て来い。


    コミュニケーションなど望んではいない、自分が楽しければそれでいい、と思いながら人と話して笑ってもらえるなら、それはまるでピエロ。もっとおどけてみせろ。


    今さえ楽しければいいとか、後悔したくないだけだとかいう考え方が明確に間違っているのは、後悔というのはいつかの今にしたことに対してするものだから、ということで、わたしならそんな風に考えただけで萎えてしまう。もちろんこれは詭弁だけれど、詭弁を能動的に行使するということは、それだけ、いろんな意味で話のわからない人が増えた、ということだ。


    トレインスポッティングをみた。というかまんまなチョイスばかりで申し訳なさすら感じるけど(しかも次はアメリがみたいです)、それはともかく、イメージ先行で、もっと超越的な映画かと思ったらそうでもなかった。悲しいことは悲しいという、良くも悪くも若い人たちの心境をまるごと作品にしたような映画。なんと表現すれば適当かがわからないけど、CGとか映画っぽいことをたくさんやらかしてるのに、芸術っぽい感じはなくて、わたしは日常より小説にリアルを感じたりすることが多いんだけど、そういう感性に合致するような雰囲気があった。観終ったあとに何も残らないところも素敵だった。


    殺気を失ってはいけないと思う。去年はそれを培う時間だったと言えば、とてつもなく有益な時間だった。それを忘れない。


    マンドローネというひどくマイナーな楽器をすることになった。マンドリンの低音パートを担当する楽器で、低音だからもちろんのこと大きい。低音好きだから憧れの分野ではまああるんだけど、ローネに対して不遜に言えば、高くてきれいな音のするマンドリンやクラッシックギターに行かないあたりがすごく自分っぽい感じがして「これだな」と納得してしまった。

    大学は快適なところだと思う。人だかりを見て「あいつら死ねばいい」とかあんまり思わない。根付く場所が少しでもあれば、表面的な出会いをいくらしてもかまわないと今は思う。


    写真を撮るのが趣味だという人が、「写真を撮ると撮った写真に自分の内面が出る」というようなことを言って、写真というのはアングルとか光の加減以外は見事なまでに撮影者の外部のものだというのに、その人にとってはそれが内面を示すものとして理解されているというのが面白かった。もちろんそれは皮肉だと思ったのもあるけど、わたしはこんなこと言っててもいい写真は取れないし、やっぱり才能の側の話だとも思ったから羨望なのかも知れなかった。

    「メメント」をみた。あるまんがの元ネタだったのがわかってしまい、真面目に見れるかと思ったけどなんとかした。漠然とした言い方をすると、もっとコアでサイコな感じかと思ったらふつうに洋画洋画してて肩透かしをくらったような気がした。サスペンスというかミステリーだから結局オチがあってしまうんだけど、時系列が乱れてるから、ものすごくいい感じに変な映画になってて、「異色な作品」としてすごく成功してると思う。


    「tokyo.sora」をみた。セリフの少ない映画だけど、なんて雄弁なんだろうと思った。とくに、ふだんはくだらないことしか喋らない、はやんない喫茶店のマスターが「死にたいと思うことある?俺は毎日思う」みたいなことをウエイトレスの子に話すシーンがあるんだけど、そこはさすがにずるくて、わりと多くの人にとってこの映画は、誰かと一緒に見る映画ではないんだろうなあと思う。それはベタといえばベタなんだろうけど、この映画についてそういうことを言ってしまうとほかの日本映画の立場がなくなってしまうような気がするし、そういう人生をなぞる人には自分に嘘をつくことにもなる。表面的な、女の子たちの奇跡のようなつながりと、個人個人の内面にある闇の映画的なつながりがすごく「作品」という感じの様相を呈していて、こういうときに完成度っていう言葉を使うんだなあと思った。

    前日にジョゼも見たけど、こっちはどうもちぐはぐとした感じで面白いとはみじんも思わなかった。ツマブキ君は何をしててもツマブキ君という感じで、特に悪意もないけど、あんまり好きな俳優としては見れない。あと、ゴダールの映画をはじめて見た。女は女であるという題名。はじめて保坂和志の小説を読んだときみたいな、わかんないなあという感じに襲われたけど、つまらないわけではぜんぜんなかった。


    */*(***)

    先のことを考えると涙が出る、と書いたのはすでに過去のことだけど、いまでもいろいろ、先のことを考えると涙は出なくてもかなしくなる。未来は嫌いだと思う。未来のことを考えることで未来の自分のそういう限界を見てしまう。


    どんなことでさえも謎解きでないことが思考の停止だろうけど、たとえそうだとしても、その時ですら人間は情緒で動いているわけではないと思う。


    世の中になぜ嫌な人がいるのかわかった気がした。

    「机上の空論」っていうラーメンズが出てる映画?みたいなんを見た。市川実日子がちょっと笑っちゃうぐらい可愛かった。


    さいきんは眠るまえに一日に聞いた音がぶわーっとランダムに再生される(わかるかな?)現象がよく起こる。ここのところはその音の中で、人の声の割合が多くて非常に不快。あしたは一日音楽だけ聴いて過ごせないだろうか。


    気の迷い。「迷う」って言葉自体がどうしようもなく精神の内側に結びついた言葉なのに、わざわざ「気」とかいうふうに感情を具体化して、それをながめる視点が生成されている。酔っ払いの言い訳と同種のものを感じる。気がかりなことはたいがいそれ自体が答えなのに。それでも、「それでも」という意味の言葉なんだろうか? わからない。


    いまなんだか不安なのかもしれない。なんでもできると思っていた気持ちは強がりだと後になってわかったけど、もう意識的にしか強がれないんだと思ったら取り返しのつかないような気がする。できることをやっていくという言葉の意味が変わる。


    遠く空のあいだから伸びてきた絵筆か箒に一掃されるようだった。強い風が吹いていて、呼吸のタイミングをうしなう。すると不思議なくらい不安になるのは小学生のころと変わっていない。

    怖いものはまだある。眠るとき、思い出したようにふとんをかぶると、驚くほど完璧な暗闇がそこにあるのに気付く。目を閉じたときでさえ砂嵐みたいなものが見えるから、貴重な暗闇なんだけど、だんだんと息苦しくなるからそんなに見つめてもいられない。うちの猫は布団に入ってくると頭を出したりもせず、ずうっと布団のなかにもぐりこんだまま(ちょうどわたしのおなかのあたりで丸くなっている)なんだけど、あれはどうやってるのか気になる。体が小さいから必要な酸素も少ないんだろうか。


    思い出がそこになかった。過去が過去であって本当によかったと思うのが成長なら、あの日のどうしようもなく嫌な先行きへの予感はいま、前向きな形で的中したらしかった。


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